斧節

混ぜるな危険

ヨシュア記「異民族は皆殺しにせよ」

・『宗教で得する人、損する人』林雄介
・『完全教祖マニュアル架神恭介、辰巳一世
・『サバイバル宗教論佐藤優
『イスラム教の論理』飯山陽

 ・ヨシュア記「異民族は皆殺しにせよ」

一神教の信者は異教徒には何をしてもいいと考える
・『宗教は必要かバートランド・ラッセル
『精神の自由ということ 神なき時代の哲学』アンドレ・コント=スポンヴィル
・『神は妄想である 宗教との決別リチャード・ドーキンス
『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド

 その答えは『旧約聖書』の「ヨシュア記」を読むとわかる。(中略)
ヨシュア記」にこそ〈宗教の秘密〉は隠されているのだ。
 神はイスラエルの民にカナンの地を約束した。ところが、イスラエルの民がしばらくエジプトにいるうちに、カナンの地は異民族に占領されていた。そこで、「主(神)はせっかく地を約束してくださいましたけれども、そこには異民族がおります」といった。すると神はどう答えたか。「異民族は皆殺しにせよ」と、こういったのだ。
 神の命令は絶対である。絶対に正しい。
 となれば、異民族は鏖(みなごろし)にしなくてはならない。殺し残したら、それは神の命令に背いたことになる。それは罪だ。
 したがって、「ヨシュア記」を読むと、大人も子供も、女も男も、一人残さず殺したという件(くだり)がやたらと出てくる。(中略)
 異教徒の虐殺に次ぐ大虐殺、それは神の命令なのである。


【『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹徳間書店、2000年/新装版、2021年)】

「なぜコロンブスやマゼランは虐殺を行ったのか?」との疑問を提示した後のテキストがこれだ。旧約聖書ユダヤ教およびキリスト教の正典だ。そもそも聖書の中で一番殺しまくっているのは神である。その似姿として創造された人類が、神の殺戮(さつりく)に続くのは当然か。

「普通に考えてありえないだろう?」と思うのはアブラハムの宗教を知らない日本人の思考回路である。諸君は砂漠で生まれた一神教の苛烈さを少しは学ぶべきだろう。

 キリスト教を学ぶと歴史の見通しがよくなる。就中(なかんずく)、近代という概念はキリスト教の知識を欠けば理解できない。現在の国際社会のシステムを構築したのは欧米であり、そこにもキリスト教の宣教的な思い上がりがある。

 例えば私がゴキブリや蚊を殺すのにためらうことはない。ゴキブリを見つけたら躊躇(ちゅうちょ)することなく素手で潰す。ティッシュで、などと悠長に構えたりしない。アメリカに渡ったヨーロッパ人がインディアンや黒人を殺したのも同じ感覚なのだろう。日本人からすれば「肌の色が異なるだけの同じ人間」に見えるわけだが、白人の眼にはゴキブリと映るのだ。ルワンダ大虐殺でもラジオのDJが「ツチ族のゴキブリどもを殺せ!」と煽動した。

 神の言葉は絶対である。日本人が使う絶対は往々にして「断じて」とか「必ず」という意味合いである。「絶対に嘘をつくな」とか「約束してね。絶対よ♪」など。ところが神の絶対は違う。「絶対に動かすことのできないもの」としての絶対なのだ。それゆえそこに疑問を差し挟む余地はない。一切は神から出発し、神を巡る議論となるのである。

 創価学会員が言うところの「御本尊は絶対だ」なんてのはまだまだ甘い。その絶対は「確実」を示唆している。ま、既に御本尊も取り替え可能なグッズと成り下がってしまったわけだが。

 だから、「異民族は皆殺しにせよ」との神の命令は絶対であり、「なぜ?」という疑問が湧くのは外野であって、クリスチャンなら「イエス・ウイ・キャン!」と応じるしかないのだ。

 小室本は時折見せる、おちゃらけた文体で好き嫌いが分かれるところだが、天才肌の学究の徒である。創価学会に言及した記述も散見される。本書を一読して私の蒙(くら)い部分が啓(ひら)いた。良書は世界を明るくしてくれる。