斧節

混ぜるな危険

集団と個人崇拝

 ・集団と個人崇拝

・『続 ものぐさ精神分析岸田秀
・『歴史を精神分析する岸田秀
・『仏教と精神分析三枝充悳岸田秀

 一つの同じ対象に各人がそのナルチシズムを多かれ少なかれ投影したとき、集団が集団としてある程度のまとまりをもつ。集団において最高の権威、最高の指導者が一人しか必要でないのは、事務上の便宜のためではない。集団のまとまりが必要であればあるほど、一人の最高権威をいやが上にも聖なるものとし、彼への崇拝を喚起または強制しなければならない。


【『ものぐさ精神分析岸田秀〈きしだ・しゅう〉(青土社、1977年/中公文庫、1996年)】

 ヒトラースターリン天皇毛沢東などの個人崇拝について書かれた件(くだり)である。創価学会員にとっては最も脳内を掻き回される一冊のようで読書グループでの反応も今ひとつであった。岸田の主張は一言でいえば「唯幻論」である。本能が壊れてしまった人間の思考や概念はそのすべてが幻想であるとの考え方だ。

 吉本隆明の『共同幻想論』(1968年)を強烈に押し広げたような印象があり、この系譜は養老孟司〈ようろう・たけし〉著『唯脳論』(1989年)や、ユヴァル・ノア・ハラリ著『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』(2016年)へと続く。

 学会員が混乱するのは、日蓮の教えも「幻想」の可能性があることを自覚させられるためだ。本書を読むためには一定のセンスが必要で、自らの信条を相対化できる知力が求められる。

 私は二度読んでいるが、もう読むことはないだろう。当時の言論状況を思えば岸田秀はまだまだ良心的な書き手といってよい。ただし、彼が左翼とは思わないが、基本的な考え方が左翼シンパと同レベルで、戦後レジームを見事に踏襲している。つまり岸田は自分の唯幻論の幻想性が見えていないわけだ。

 集団と個人崇拝に関する指摘は正しいと思う。具体例としてはフィデル・カストロチェ・ゲバラを比較するとわかりやすいだろう。ゲバラが英雄として1960年に持て囃(はや)され、肖像が描かれたポスターやTシャツが一世を風靡(ふうび)したのは、彼が権力の地位に坐らなかったためだろう。