斧節

混ぜるな危険

真の壮烈

・『さぶ山本周五郎

 ・真の壮烈

・『深川安楽亭山本周五郎
・『日日平安山本周五郎
・『松風の門山本周五郎

「戦場では幾千百人となく討死(うちじに)をする、誰がどう戦ったか、戦いぶりが善かったか悪かったか、そういう評判は必ずおこるものだ、わたくし一人ではない、なかにはそういう評判にものぼらず、その名はもとより骨も残さず死ぬ者さえある、そしてもののふの壮烈さはそこにあるのだ」


【『一人(いちにん)ならじ』山本周五郎〈やまもと・しゅうごろう〉(新潮文庫、1980年)】

 初めて読んだのは25歳の頃か。四度読んでいる。読書グループの課題図書にした。高等部にも読ませた覚えがある。

 創価学会成果主義は非常にわかりやすく、本尊流布・結集・選挙に集約される。活動を控えるようになってから時折、壮年部の幹部が訪れたが、私は必ず「個人折伏は何世帯やっているのか?」と質(ただ)し、「私は10世帯だ。私よりもやってから出直しておいで」と応じた。区幹部で「3世帯です!」と胸を張った間抜けがいたよ。

 特に東京の下町では知性が完全に否定されており、厳密な数字勝負の世界が繰り広がる。競争が熾烈の度を増すと功名心が全開となる者が現れる。活動報告を聞いても、「凄い御本尊だ」「題目の力は絶対だ」「感謝の念でいっぱい」などと定型句を盛り込みながら、その実、「俺って凄いでしょー」という内容に堕している場合がある。そんなものは直ぐにわかるよ。

 文化祭とか遊説隊になった途端、元気一杯になる頓珍漢を昔はよく見掛けたものだ。結局、「見えるところ」でしか戦っていないのだ。

 同年代の婦人部の下(しも)のお世話をしているブロック幹部がいた。配達員が不在の地区で聖教新聞の配達を買って出た区副婦人部長がいた。犯罪をおかした後輩の元へ、毎日勤行をしにゆく男子部幹部がいた。組織内で村八分にされた壮年宅へ足繁く通う婦人部幹部がいた。大白片手に刑務所を訪ねてミニ座談会を行った幹部がいた。組織内で事件が起これば、人知れず数人の幹部が奔走し様々な手を打つ。折に触れて私はそういう人々を目の当たりにしてきた。

 数字だけ追いかけていると、どうしても苦しくなる。数字は飽くまでも結果に過ぎない。「どんな数字」なのかが問われるのだ。

 創価班の訓練でも無名性は叩き込まれた。警備に個性や我(が)は不要だ。事故さえなければそれでいい。

 戦っている人は直ぐわかる。互いにわかるのである。「戦っているフリ」をしている連中には窺い知れない世界だ。少なからずそういう人は世間にも存在する。ただし、カネが絡んでくることが多い。