斧節

混ぜるな危険

集団の共同幻想

『ものぐさ精神分析』岸田秀

 ・集団の共同幻想

・『歴史を精神分析する岸田秀
・『仏教と精神分析三枝充悳岸田秀

 いかなる集団であれ、集団の文化、道徳、理想、規範、風俗、常識、制度など、そのほかいっさいのものが幻想の産物である。ある集団のなかで現実と見なされているものすら、幻想に過ぎないのであって、ある集団における冷静な現実主義者は、別の集団では熱にうかされた妄想狂の範疇に入れられるかもしれない。集団というものが何らかの合理的基盤の上に立っていると考えるのは大いなる誤りであり、集団は、何らかの不幸な条件のもとでたまたま狂うことがあるというのではなく、また、基本的なところはまともであるが表面の末梢的な点でときに狂っているというのではなく、集団が集団であるかぎりにおいて、本質的に狂っているのである。
 集団の共同幻想が幻想であることに気づかないのは、その共同幻想におのれの私的幻想を共同化している者、すなわちその集団の成員のみである。われわれにとって、われわれが所属している集団以外の集団は必然的に変な、狂ったものに見える。もっとも、個人が自分の心の奥底をめったには明かさず、日常生活においては一般に通用する外面を身につけ、装いっているのと同じように、集団も他の集団に変に思われそうな面を普通は隠しているから、このことは必ずしも明らかではないが、何らかの機会に集団の本音とか実態とかが明るみに出れば、その集団の成員以外の者は、しばしば唖然とする。
 どのような集団においても、ほかでは決して通用しそうにないことが多かれ少なかれ、常識とか慣例として通用している。どうしてそんな馬鹿げた、ひどい、とんでもないことがまかり通っているのだろう、馬鹿ばかりそろっているわけでもあるまいに、押しとどめる人はいなかったのだろうかと、はたの者には不思議だが、集団のなかにいる者にはわからない。
 集団の共同幻想は決して成員たちの賢明な側面を共同化したものではなく、平均的なところを共同化したものですらなく、しばしばもっとも狂った幻想的な側面を共同化したものであり、したがって、暴徒や群衆の場合は言うに及ばず、一見合理的な目的のために合理的に組織されているように見える集団の場合でも、集団は、つねに、そのなかの賢明な個人よりはもちろん、平均的な個人よりも愚かである。「三人寄れば文殊の知恵」という諺があるが、一人の場合よりも三人が賢明な行動ができるのは、むしろ例外的であり、その三人がいかなる意味において同じ集団に所属しておらず、同じ幻想を共有していない場合に限られる。集団は、指導者がいて指導者に指導されるが、集団のなかの賢明な個人が指導者に選ばれると思うのはあまりにも素朴に過ぎる。ヒトラースターリンチャーチルの例を持ち出すまでもなく、指導者になるのは、集団というものの構造上必然的に、知的にも道徳的にもその他の面でも、そのなかの平均以下の個人である。偉大な指導者というのは、つねに神話である。例外はない。集団が「偉大な指導者」を見出したという幻想に囚われていた時期は、その集団がもっとも破壊的な愚行に走っていた時期であることがあとからわかる。


【『続 ものぐさ精神分析岸田秀〈きしだ・しゅう〉(中公文庫、1982年/『二番煎じ ものぐさ精神分析青土社、1978年と『出がらし ものぐさ精神分析青土社、1980年で構成)】

 かなり牽強付会(けんきょうふかい)な論法で合理性よりもディベート的色合いが濃い。

 ま、合理性という言葉も実は結構危うい側面があり、もともとは神の摂理に由来する言葉だ。かつて理性とは「神を理解できる能力」を意味した。東洋の「道理」とは異なる概念なのだ。

 ただし、イデオロギーという共同幻想に関しては岸田の指摘が腑に落ちる。何らかの党派性をもつ運動をイデオロギーと考えてよい。例えば日蓮系教団が本気で広宣流布を目指すのであれば、「唱題行」一本を広めるべきであった。本尊すら問う必要はない。題目宗として柔らかな拡大が可能であれば社会に溶け込むことも可能だろう。

 勢力拡大がイデオロギーの特徴である。宣教とオルグ折伏に大差はない。「我々の仲間」になることは「彼らの敵」となることを意味する。

 日蓮が死去した直後から教団が分裂した歴史を思えば、日蓮の教えは幻想のバリエーションが豊富なのだろう。思想の力とも言い得る。ただし、「日蓮の思想を述べよ」と問われれば簡明に答えることは難しい。「他力本願」(浄土宗)のような鮮やかな主張を欠いている。「本尊受持」と聞いても世間の人はピンと来ないだろう。

 岸田の論法だと理性よりも本能が優位となってしまう。「本能が正しい」という思い込みも幻想の可能性がある。と、まあ何でもかんでも幻想扱いすることができるのが唯幻論の便利なところではある。