斧節

混ぜるな危険

社会を構成するのは「神と向き合う個人」

・『タテ社会の人間関係』中根千枝

 ・社会を構成するのは「神と向き合う個人」

・『「世間」とは何か阿部謹也
・『増補 日本美術を見る眼 東と西の出会い高階秀爾
・『日本人の身体』安田登

 当時、「国」とか「藩」などということばはあった。が、societyは、窮極的には、この(2)でも述べられているように、個人individualを単位とする人間関係である。狭い意味でも広い意味でもそうである。「国」や「藩」では、人々は身分として存在しているのであって、個人としてではない。
 societyの翻訳の最大の問題は、この(2)の、広い範囲の人間関係を、日本語によってどうとらえるか、であったと私は考えるのである。


【『翻訳語成立事情』柳父章〈やなぶ・あきら〉(岩波新書、1982年)以下同】

 ザ・教科書本である。私が言うところの教科書本とは、興味のあるなしにかかわらず誰が読んでも為になる書籍のことだ。

 日本の近代を開いた陰の立役者はオランダ語の通詞(つうじ)や英語などの翻訳家であった。「義務教育における英語不要論」の最大の理由は、日本では世界の主要な情報が日本語に翻訳されているためである。途上国だとこうは行かない。エリートが英語を身につけるのは英語文献や論文にアクセスするためだ。

 日本の翻訳語は中国も積極的に採り入れた。広く知られた話だが中華人民共和国で純粋な中国語は「中華」のみだ。人民も共和国も日本から生まれた翻訳語である。

 加えて福澤諭吉西周〈にし・あまね〉は啓蒙家でもあった。

 日本にあったのは「世間」であった。まだ、「社会」と呼べる存在はなかった。

 ここで、原文のindividualは、福沢の訳文の終りの方の「人」と対応している。
 ところで、「人」ということばは、ごくふつうの日本語であるから、individualの翻訳語として使われると言っても、それ以外にもよく使われる。他方、individualということばは、ヨーロッパの歴史の中で、たとえばmanとか、human beingなどとは違った思想的な背景を持っている。それは、神に対してひとりでいる人間、また、社会に対して、窮極的な単位としてひとりでいる人間、というような思想とともに口にされてきた。individualということばの用例をみると、翻訳者には、否応なく、あるいは漠然とながら、そういう哲学的背景が感得されるのである。

 individualには「分割できない」との意味もある。すなわち「独立した個人」に由来する言葉だ。つまり、社会を構成するのは「神と向き合う個人」なのだ。西洋で議論が重んじられる背景にはこうしたベースがある。

 日本人はともすると世間からはみ出ることを嫌い、出る杭(くい)となることを恐れ、反対意見はおろか異論を唱えることすら避ける。

 アメリカでは「きしむ車輪ほど油を差してもらえる(声が大きいほど得をする)」のに対し、日本では「出る杭は打たれる」のだ。


【『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール:藤井留美〈ふじい・るみ〉訳(早川書房、2005年)】

 歴史的に戦争や移民が少なかったことにも由来しているのであろう。我々日本人が権利意識に乏しいのも同じ理由による。

 ただし、個人の成立がいいか悪いかは別問題である。

 ここで不思議に思わざるを得ないのは、仏教が我(が)を所与の条件として設定している点である。西洋の個人は対社会というベクトルをはらんでいるが、仏教が説く我は欲望の当体として成り立っているように思われる。