斧節

混ぜるな危険

集団的浅慮

 ・集団的浅慮

・『服従の心理』スタンレー・ミルグラム
・『服従実験とは何だったのか スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産』トーマス・ブラス
・『権威の概念』アレクサンドル・コジェーヴ
・『人はなぜ逃げおくれるのか 災害の心理学』広瀬弘忠
・『新・人は皆「自分だけは死なない」と思っている 自分と家族を守るための心の防災袋』山村武彦
・『人が死なない防災』片田敏孝
・『無責任の構造 モラルハザードへの知的戦略岡本浩一
・『最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか』ジェームズ・R・チャイルズ
・『生き残る判断 生き残れない行動 大災害・テロの生存者たちの証言で判明』アマンダ・リプリー
・『死すべき定め 死にゆく人に何ができるか』アトゥール・ガワンデ
・『失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織』マシュー・サイド
・『アナタはなぜチェックリストを使わないのか? 重大な局面で“正しい決断”をする方法』アトゥール・ガワンデ
・『集合知の力、衆愚の罠 人と組織にとって最もすばらしいことは何か』 アラン・ブリスキン、シェリル・エリクソン、ジョン・オット、トム・キャラナン
・『予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』ダン・アリエリー

 人は、とくに集団でいる場合に危機への認知が甘くなり、異常を察知しながらも、対応が遅れやすい生き物であることを知っておいた方がいいだろう。


【『カラー版徹底図解 社会心理学 歴史に残る心理学実験から現代の学際的研究まで』山岸俊男監修(新星出版社、2011年)以下同】

 本書でも取り上げられているが、集団の傍観者効果が解明されるきっかけとなったのはキティ・ジェノヴィーズ事件である(1964年)。28歳の女性が暴漢に襲われ死亡した。何度も叫び声を上げたにもかかわらず凶行は30分間に及んだ。三度刺される間に強姦されていた。NY市警は通報から2分で現場に到着した。事件を直接見聞きした住人は38人もいたが止める人はおろか、警察に通報する人もいなかった。この事件についてはトーマス・ブラスの著作が参考になる。

「3人寄れば文殊の知恵」という諺(ことわざ)があるが、時には、集団で決めているからこそ、おかしな方向に行ってしまうことがある。この問題の提唱者として、【ジャニス】は1961年の大統領ケネディキューバ・ピッグス湾侵攻作戦失敗の経緯を分析し、当時の大統領ケネディとその周辺アドバイザーを集団ととらえ、彼らが失敗に陥った意思決定の過程から、【集団的浅慮】の兆候と結果などを系統化した(1982)。
 右ページのような兆候(症状)を改善しなかった場合、ジャニスは次のような問題が生じるとしている。(1)他の選択肢を十分に検討しない。(2)目標を十分に検討、吟味しない。(3)情報収集が乏しくなる。(4)手持ちの情報から都合の良いものだけを取り上げて分析する。(5)一度却下された代替案は再考されない。(6)選んだ選択肢が抱えるリスクやコストが検討されない。(7)非常事態を想定せず、想定しても対応策を考えない。
 ジャニスは、凝集性が高く、反対意見を言いにくい集団などの場合に集団的浅慮が起こりやすいと指摘している。

 会議・談合の目的は合意にある。つまり合意形成を意識するあまり、反対意見が言いにくくなり、外部からの視点が失われるのだ。

 例えば何度か書いたが、創価学会の広布第二章における最大の失敗は「指導部結成」にあると私は考える。昭和50年過ぎのことと記憶するが、本部長を本部指導長、支部長を支部指導長にスライドさせることで若手を登用する企図があったのだろう。しかも副区長や副本部長のように中途半端な責任だと何もしない幹部が続出する。「長に遠慮して動きにくい」と言いわけしながら、仕事に全力投球する壮年幹部も珍しくない。指導部は「広布の赤十字」というキャッチフレーズで個人指導を命じられた。表向きはそうした綺麗事がまかり通るのだが、実際に個人指導が行われるのは幹部間においてであり、指導部が行っていたのは会合の連絡やご機嫌伺いに近い世界だった。

 しかも後年(平成前後)、指導部が解体され、指導長は副に格下げされたのである。全国一斉に行われたこの人事がどれほど組織の力を奪ったことか。地域の重鎮と尊敬される人々が副本部長や支部副婦人部長という目立たぬポジションに追いやられた。かつて、ある方面長と談合していた時にこの旨を伝えたところ、膝を打って納得していた。草創期から活躍する偉大な先輩がいまだに副区長クラスに収まっているとの話も伺った。

「また、コンサルティング会社に依頼して職員のリストラ計画を策定するなど、創価学会本部のリストラを積極的に推し進めた」(谷川佳樹 - Wikiwand)。例えばこの判断に異論を唱える人物はいなかったのだろうか? 仏意仏勅の団体が外資コンサルティングファームに多額な料金を支払って組織を改革する矛盾に気づく人はいなかったのだろうか? 谷川某は多分コーポレートガバナンスに目覚めたのだろう。池田亡き後の創価学会を宗教企業と捉えて、自分なりの舵取りを模索したように思われる。

経営コンサルに委ねた創価学会 | よくわかる創価学会

【集団意思決定】の難しさは、集団極化(※合議によって極端に傾きやすい現象)だけではない。時には、決定をひるがえせない【心理的拘泥(こうでい)現象】が起こる。決定後にその選択が間違っていることがわかっても、合議によって費やした時間と労力を惜しむ気持ちや、合議にかかわったというプライドから、人は決定にこだわり続けるのだ。先の例でいえば、登り始めてから雲行きが怪しくなっても、あれほど話し合って登山を決めたのだから今さら引き返したくないと、登山を続けてしまう状態である。

 清水ともみの『私の身に起きたこと とあるウイグル人女性の証言』(季節社、2020年)と『命がけの証言』(ワック、2021年)を読んで、私は創価学会をやめた(スラップ訴訟に手を染めた創価学会)。とてもじゃないが創価学会員であり続けることはできなかった。ウイグル人大虐殺を見過ごすことは、私にとってはルワンダ大虐殺に手を貸すような行為だ。

 しかしながら凡庸な創価学会員は中国共産党の傀儡(かいらい=操り人形)と化した公明党を支援し続けている。集団的浅慮そのものではないか。

 もはや創価学会は集票力によって憲法改正を阻む与党内野党に成り下がり、日本国内において中国共産党の下部組織と見紛うほど外交・防衛の足を引っ張っている。

 池田が初めて中国を訪れた際、「先生ーーーっ!」と叫んだ若者がいた。当局が直ちに逮捕し、その後の行方は杳(よう)として知れない。きっと中国にいた創価学会員だったのだろう。だが、その若者のために池田が動くことはなかった。歴史的な行事の渦中で創価学会が「一人を大切にする」ことはない。

 学生部あたりでウイグル問題に目を向ける者はいないのだろうか?

各教団の信徒数実態