斧節

混ぜるな危険

戸田城聖は一党一派を否定

・『池田大作先生への手紙 私の自己批判をこめて原島嵩 1980年

 ・戸田城聖は一党一派を否定
 ・創価学会の献金

『徴税権力 国税庁の研究』落合博実 2006年
『絶望の淵より甦る 創価学会を脱会した歴史の生き証人 体験を通して真の信仰へ』原島嵩 2007年

 この頃(昭和30年)、戸田会長は、次のようにも発言しています。
「さりながら、広宣流布といえども、一朝一夕になるものではありません。……日本国中の人々がいかに大御本尊様が有り難いかということを肝に銘じてこそ、真の広宣流布ができるのであります。
 さて、その広宣流布の姿におきまして、広宣流布の途上の姿におきましては、あるいは新聞社において、あるいは雑誌において、そのような文化活動において、あるいは映画において、あるいは政治において、または会社の重役といえども、会社の小使いといえど、みな、御本尊様の有り難いことが分って、それから衆議院参議院から国会の定款が出され可決され、天皇もまたこの有り難さを知ってこそ、初めて広宣流布ができるのです。
 それがためには、なまじっかな方法では決して広宣流布はできない。このようにその一環として、文化部が創設され、初めて文化活動ののちの政治活動が、よく試験管で試験するような小規模な文化活動がここに起こされたんです。
 私の理想からいうならば、五十数人の人々が、文化部員として政治活動に参加しだしたことは、広宣流布の大理想からすれば、豆つぶのようなものであります。
 ただここで断っておかなければならないのは、政治のための政治ではありません。また、ある人はそう言うのならば、創価学会党というようなものができて、それで広宣流布するのではなかろうかと考えるかもしれませんが、決して政治のための政治ではありませんから、一党一派にくみするものではありません。文化部員が一人は社会党であり、一人は自由党であり、一人は民主党であります。なかには共産党であったとしても、一向にさしつかえないのであります。それは政治のための政治ではなく、広宣流布のための政治であるからであります」(創価学会幹部から提供されたテープより。段勲著『迷走する公明党の内幕』所収)


【『誰も書かなかった池田大作 創価学会の真実』原島嵩〈はらしま・たかし〉(日新報道、2002年)】

 第3回統一地方選挙が行われた直後と思われるので、たぶん昭和30年5月の談話であろう。「戸田が展望した政界進出の目的は飽くまでも国立戒壇にあった」と原島は書いているが、微妙な疑念を拭えない。戸田は公の席では衆議院進出を否定しているが、水滸会ではその旨を語っているのだ。

 原島については『新・人間革命』で悪しき印象操作を行っているようだが、実はただ一人池田を諌めた人物である。しかも、何と6時間にも及んだという。その後、聖教新聞社から重要文書を勝手に持ち出したが、それが発覚した時点でもまだ処分はされていなかった。池田が会長就任のその日に「君は私の一番最初の弟子になるつもりがあるか?」と質(ただ)した相手でもあり、確か池田の弟子分帳(昭和50年前後に作成)の第1位に記されていたとも記憶している。福島源次郎は池田に意見はしているが諫言には至っていない。

 公明党結党から正本堂供養を経て、池田の権勢は絶頂期にあったが言論出版妨害事件でつまずく。それでも何とか凌(しの)いでみせ、宗門を支配下に置くべく権謀術数を巡らせた。池田vs.細井紛争は池田の完全敗北で幕を下ろした。

 戸田が、創価学会党を否定し、「一党一派にくみするものではありません」と断言したのは卓見である。やはり政争の現実を理解していたのであろう。戸田の指導集が絶版になっているのは、池田会長時代の創価学会がその教えと矛盾しているためだろう。「時代が違う」というのは言いわけにならない。なぜなら宗教原理には時代を超えた普遍性が求められるからだ。

 尚、広布第二章の教学面を牽引してきた人物ではあるが、矢野絢也と比較すると文章に切れ味がなく、拙い印象を受ける。