斧節

混ぜるな危険

空の思想が媒介して「不二」が生まれた

『世界の名著1 バラモン教典 原始仏典』長尾雅人責任編集
『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵

 ・空の思想が媒介して「不二」が生まれた

 ところで有部の実体との関連で龍樹にとんでしまったのですが、西暦紀元ごろから、つまり龍樹のすぐ前の段階で『般若経』や『維摩経』などの大乗経典が出てきます。そしてこれらの経典で盛んに言われることに「不二」ということがあります。『維摩経』第8章に「入不二法門」というのがありますし、この「不二」の原語アドヴァヤ(advaya)は『般若経』や『維摩経』で何度も出てくる非常に重要なキイタームになっています。
 それで、なぜこの不二ということをいうかというと、これは先程アビダルマ仏教、説一切有部の仏教を区別の哲学と規定しましたが、これに対してまったく逆で、区別しない哲学、区別しないものの考え方をするわけです。たとえば煩悩と菩提について、有部においては、菩提はあくまで煩悩と違う、煩悩は俗なるもので、聖なる菩提とは違うものというようにはっきりした区別をつける。煩悩は煩悩という実体であり、菩提は菩提という実体であって、そこに共通点はなく、それぞれ違った本質を持ったものだと考えた。ここにはものの転換というものがなかったわけですが、大乗仏教になると、煩悩即菩提で、煩悩と菩提は違わない、実は一つのものだということになってきます。そしてこれを不二というわけです。なぜそういうことがいわれたか。これは空の思想が媒介するわけです。先ほどのように、菩提が菩提という本質を持てば、それが等しくなるわけがないのですが、菩提に本質がなく空だ、煩悩も実体をもたない空なるものだとすれば、空という点では煩悩と菩提は一つになる。だから不二だということなのです。


【『空の思想 仏教における言葉と沈黙』梶山雄一〈かじやま・ゆういち〉(人文書院、1983年)】

 空とは「実体がない」こと(空=シューニャについては田上太秀〈たがみ・たいしゅう〉著『人間ブッダ』を参照せよ)。不二思想と空の関係性については初めて知った。つまり、空→無分別という飛躍だ。

十妙と十不二門(じっぷにもん)

 梶山雄一の著書を初めて読んだ。洗練された知的アプローチが心地好い。ただし思弁の枠組みに収まっていて叡智のきらめきは感じられない。かつて長尾雅人〈ながお・がじん〉に師事したことがあるようだ。

 私の興味は悟りにある。既に仏教史はもとより仏教にすら関心がない。それでも時折、仏教書を開くのは迷妄を破るヒントがそこここにあるからだ。

 例えばこのテキストは、「ああ、俺の創価教学はやはり底が浅かったなー→説一切有部ヴェーダに傾いたのだろうな→それでも尚、二元から一元に向かうところはノンデュアリティ(非二元)と一緒だな」という思考を私に促すわけだ。で、ヴェーダが侮れないところは知識(=ヴェーダ)でありながらも梵我一如を説いている点である。結局、一元論なわけよ。

 創価学会員の内外相対は「私が変われば、その影響力で周囲の人々も少しずつ変わってゆき、やがては世界に波及する」という革命理論紛いの教えにとどまっているが実は違う。「私が変わると同時に世界も一変する」のだ。変わるとは成長を意味していると錯覚する学会員が多いがそうではない。世界の認識が変わるのである。