斧節

混ぜるな危険

死を覚悟した若き医師が見た光景

 ・死を覚悟した若き医師が見た光景

『精神の自由ということ 神なき時代の哲学』アンドレ・コント=スポンヴィル
・『君あり、故に我あり 依存の宣言』サティシュ・クマール
『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー

 その夕刻、自分のアパートの駐車場に車をとめながら、私は不思議な光景を見ていました。世の中が輝いてみえるのです。スーパーに来る買い物客が輝いている。走りまわる子供たちが輝いている。犬が、垂れはじめた稲穂が雑草が、電柱が、小石までが美しく輝いてみえるのです。アパートへ戻って見た妻もまた、手を合わせたいほど尊(とうと)くみえたのでした。


【『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ 若き医師が死の直前まで綴った愛の手記』井村和清〈いむら・かずきよ〉(祥伝社ノンブック、1980年祥伝社黄金文庫、2002年/祥伝社新版、2005年)】

 31歳で逝去した医師の手記である。単行本で100万部以上売れたベストセラーだ。

 井村は骨肉腫で右足の膝下部分を切断した。その後、両肺への転移が判明する。医師としての知識が病状の残酷さを正確に告げた。死を覚悟した彼が見た光景は「光り輝く世界」であった。

 創価学会の信仰体験でも「マンダラが金色に光って見えた」という話がある。ただしこれはあまりにも出回っているので、予備知識による錯視と考えられなくもない。

 井村は淡々と事実を記しただけで、悟りの自覚すら持ち合わせていない。私はむしろそこに感動を覚える。宗教者の過剰な修飾に満ちた不思議な体験は所詮売り物だろう。不思議はただ味わうべきものであって、神仏や祈りを引き合いに出せば、たちまち商売の悪臭を放つ。

 この件(くだり)を読んで私はロバート・カーソン(『46年目の光 視力を取り戻した男の奇跡の人生』)が初めてものを見た瞬間を思い出した。失われた感覚を取り戻した時、その人の世界は一変する。初めて音を聴いた聴覚障害者や、初めて色を見た視覚障害者の動画は、いつ見ても感動的で幸福の何たるかを教えてくれる。

 なぜ私は音を聴き、色を見ても泣かないのだろう? 感覚が奇蹟であるならば、生そのものもまた奇蹟なのだろう。私も生まれた直後に同じ感激を味わったはずだ。耳は母胎にいる時から機能しているが、初めて音を受け取った瞬間が必ずあるのだ。だがやがて、聴こえることは当たり前となり、見ることは退屈さを増して、刺激の強い映像や作品にしか目を奪われることがなくなる。

 生命活動は生活と称され、賃仕事に費やして時給や年俸に換算され、人間の価値まで決定される。のんべんだらりと過ごす人生百年時代にうんざりしながらも余念がないのは老後の資金だけだ。生は燃焼するどころか、ただ浪費されるだけだ。

 そんな暗く灰色の世界しか見えない我々に井村は活を入れる。生命の焔(ほのお)を燃やせば、たとえ短い人生であったとしても後悔のない生きざまを彼は示す。