斧節

混ぜるな危険

犯罪を重ねてしまう障碍者の残酷な現実

・『獄窓記山本譲司
・『続 獄窓記山本譲司

 ・犯罪を重ねてしまう障碍者の残酷な現実

・『自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」佐藤幹夫
『永山則夫 封印された鑑定記録』堀川惠子

「これまで生きてきて、何も楽しいことはなかった」
 岩渕さんは、妹のこの言葉に愕然としたという。彼女は、中学生の頃から家事労働に追われる毎日を過ごし、休日や放課後に友人と遊ぶこともなかったらしい。個人旅行の経験など、ただの一度もなかった。自我を消し去り、家族のために生き続けた25年間。これでは、あまりにも寂しすぎるし、悲しすぎる。
「これからは、目一杯、楽しいことをして暮らそう」
 岩渕さんは、そう妹に呼びかけた。そしてそれからは、彼女を未知の世界へと連れ出す日々が続く。映画館、花火大会、学園祭、居酒屋などなど。ボランティアの学生たちとのパーティーも頻繁に開いた。「東京ディズニーシー」「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン」「志摩スペイン村・パルケエスパーニャ」「ジブリの森」といった日本各地のテーマパークにも出掛けた。いつも、酸素吸入用の大型コンプレッサーやストレッチャーを携えての大移動だった。
「はじめは誰にも心を開かなかったあの娘がな、声をあげて笑うようになったんだ」
 微に入り細を穿(うが)つ支援を尽くした岩渕さんは、磊落(らいらく)な笑顔を浮かべ、当時を振り返る。「人生、何も楽しいことはない」と漏らしていた彼女が、「もう少しだけ、生きてみたい」と望むようになったそうだ。


【『累犯障害者山本譲司〈やまもと・じょうじ〉(新潮社、2006年新潮文庫、2009年)】

 山本譲司民主党衆議院議員を2期務め、秘書給与の不正利用で実刑判決が下った。収監された刑務所は知的障碍者や精神障碍者であふれていた。この国では刑務所が障碍者セーフティネットとして機能していた。

 私にとっては、『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』(レヴェリアン・ルラングァ著)に次ぐ衝撃の一冊である。本当に「頭をガツンと殴られた」ほどのダメージを受けた。

「妹」とは、レッサーパンダ帽男殺人事件(2001年)の犯人の妹である。

 浅草・女子短大生刺殺事件。レッサーパンダの帽子をかぶった男による犯行。彼もまた知的障碍があり、職場で散々ないじめに遭った。前歯が全部折れるほどの暴行を受けたという。父親からも、皮膚が膨れ上がるほど青竹で叩かれた。山口被告の妹は、13歳の時に母親が病死したため進学を断念。家計を支えるために働き通しの毎日を過ごした。事件の直前に末期癌が見つかった。一家を支えてきた妹は、障害者手帳も所持してなければ、障害者基礎年金も受給してなければ、医療費免除の対象にすらなってなかった。当然、生活保護も受けていなかった。「共生舎」という札幌市内の障害者支援グループが支援に乗り出した。後に、58歳の父親にも知的障害があることが判明した。

「病院では死にたくない。最後に少しだけでもいいから、一人暮らしがしてみたい」――そう話す山口被告の妹を共生舎が全力で支援する。主宰者の岩渕進さんが号令をかけた。「自分たちの持つあらゆる力を駆使して、彼女の一人暮らしを支えていこう。体力、知力、根性、金、すべてをとことん注ぎ込む。これは、硬直した現在の医療・福祉行政への挑戦でもある」。凄まじい気概である。本当のセーフティネットとして窮地に陥った人々を救っているのは、社会福祉法人格もNPO法人格も持たない彼等であった。

 そんな中でも妹は、兄が事件を起こしたのは自分にも責任があると我が身を責め続けた。妹は、医師の宣告よりも7ヶ月長生きし、多くの人に見守られて亡くなった。支援し続けた岩渕も2008年に帰らぬ人となる。

 数年前に知り合った60代の男性が知的障碍者だった。聞けば祖父母の代から障碍があったという。両親も障碍者であったため療育手帳障碍者手帳)の申請は行ってなかった。二十歳までに申請していないと障害年金は受け取れない。一緒に暮らす50代の妹は足し算引き算も満足にできず、アルバイトを長く続けることもかなわなかった。二間の借家は物置きよりも凄まじい荒れようだった。後で知ったのだが彼は学会員であった。

 彼が職場を首になった。私は公明党の地方議員に連絡を取った。木で鼻を括ったような対応だった。共産党に頼もうかと思ったがやめた。結局、私が役所に掛け合い、少しばかり時間を要したが生活保護の申請が認められた。現在は市営団地で暮らしている。

 児童虐待は脳の発育を阻害する。長ずるにつれて自閉症と同じ症状を発するようになることがわかっている。