斧節

混ぜるな危険

意業がカルマの基盤

・『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』友岡雅弥

 ・意業がカルマの基盤
 ・諸法非我

『神々の山嶺』夢枕獏
『すらすら読める 養生訓』立川昭二

 業(karuma)とは、身・口・意の行為のことです。
 身・口・意の3つの行為を、それぞれ、身業、口業、意業と言います。
 この3つの業は、思業と思已業に分けられます。
 思業とは思いが内にあって外に現われていないものであり、意業のことです。
 思已業とは、思いが外に現われたもので、身業と口業がそれに当てはまります。
 つまり、身業も口業も意業も、思いのことなのです。
 内にある思いか、外に出た思いか、の違いだけです。
 身体の行為も、口から出る行為(言葉)も、思いが外に現れたもので、思いの一種なのです。
 仏教は、このように、思いこそ行為=karumaと考えているのです。
 少なくとも、思いがkarumaの基盤であるとういのが仏陀の考えなのです。


【『仏陀の真意』企志尚峰〈きし・しょうほう〉(幻冬舎、2022年)】

「現われ」「現れ」が混在しているが原文ママである。改行が多いのはブログを編んだためか。女子中学生の日記みたいで嫌悪感が先立ってしまう。

「思業と思已業」なる言葉を初めて知った。Wikipediaの「」も参照せよ。

 思いを変えることは可能だろうか? 外部からの五官情報に心が反応する時、受け止め方を変えることはできるだろうか? 難しい。たぶん無理だ。先程書いたが、私は嫌悪感を覚えることが多い。自分では「鼻が利く」と思っているのだが、嘘や悪意を敏感に嗅ぎ取る。人物判断を誤ることが殆どない。これは亡くなった父親からの影響が強い。

 では、私が嫌悪感を回避する方途はあるだろうか? 実はある。それが瞑想なのだ。まったくもって「想いを瞑(くら)くする」とは絶妙な言葉である。

 本書で書かれている「サティ」については異論がある。著者は「気づき」よりも「記憶」の意味を重視しているが、その前段階で「記憶の束」=自我を否定しているのだから自家撞着を露呈している。

 私の嫌悪感は「意業」である。ところが厳密に見れば、「嫌悪感に気づいている視点」がある。これこそがサティである。実に微妙な次元だから、しっかり考えてもらいたい。怒りに駆られた瞬間に、怒る自分に気づく自分も確かに存在する。自分で訓練を繰り返してゆくと、直ぐに感情の状態に気づけるようになる。これを10のラベルで分けたのが十界論なのだ。

 自分で自分を見る~見下ろす(観察する)のが瞑想である。そして自動的・自律的に反応してしまう大脳辺縁系の電力を落とすのが瞑想なのだ。

 そのために必要な所作は「慎み」である。