・「畏れ」「慎み」
・『養生訓に学ぶ』立川昭二
・『養生訓』貝原益軒:松田道雄訳
・『養生訓・和俗童子訓』貝原益軒:石川謙校訂
命の尊厳への意識にもとづいた養生という理念は、人の生き方のもっとも重要な倫理となるが、その養生の核心をもし一字で表すと何という字であるか――。益軒はずばり「畏」(おそれる)という字である、と言う。「畏れ」とは恐怖の怖れではない。畏敬(いけい)の畏れである。
では、なにを畏れるのか。それは「天道」を畏れることである。(中略)
そして、「畏れる」心からは、当然のことながら人欲をほしいままにすることなく、「つつしみ忍ぶ」心が生まれる。『養生訓』には、いたるところに「つねにつつしみて身をたもつべし」とか、「常に畏(おそれ)・慎(つつしみ)あれば、自然に病なし」「色慾(しきよく)をつつしみ」といったことばが出てくる。命あるいは天地にたいする畏れそして慎み、これが養生の立脚点なのである。
では、この「畏れ」「慎み」という倫理観は何に根ざしているのか。そこにはじつは、江戸の人びとの欲望に対する自制心が背後にあると考えられる。つまり、自分たちが生きている世界の限界、たとえば自分の家の分限(ぶんげん)、自国の領地の限界、あるいは三百万町歩(ちょうぶ)で3000万人が生きていかなければならない日本の国土の限界ということを、はっきりした意識ではないものの、暗黙に了解していたと思われる。
新自由主義を経てリバタリアニズムの風が吹いたのは1980年代のこと。レーガン大統領(米)、サッチャー首相(英)、中曽根首相(日本)の頃だ。小泉政権の郵政解散総選挙で日本の雇用も大きく変わり果てた。バブル景気が去って日本経済は長らく沈み込んだままだが、世界経済は絶好調だった。リーマンショックが起こる2008年までは。
ビッグテックに見られるように拡張・膨張がこの時代の特徴だった。富は極端に偏り、一部の人々が巨額の資産を手にした。「畏れ」や「慎み」とは全く無縁で、競争に勝つためとあらば何でもやってのけた。
創価学会もまた「畏れ」や「慎み」を知らなかった。広宣流布の名の下に拡張・膨張をし続けた。75万世帯や700万世帯なんてのは全部嘘っぱちだ。退転者や脱会者が計上されていない。会員数や聖教新聞の発行部数すら正確に発表しないところに創価学会の弱味がある。
以下の記事で大山倍達〈おおやま・ますたつ〉の晩年を知った。
・全員、悪人…「添野義二 極真鎮魂歌」から、相互の暴言・罵倒集 - INVISIBLE D. ーQUIET & COLORFUL PLACE-
弟子を利用した挙げ句の果てに、あっさりと破門にするところが池田とそっくりである。不思議なことに言葉遣いまでが酷似している。権力者の心象風景は同じように貧しいのだろう。人々を自由に操れると錯覚した瞬間から転落が始まるのだ。大山にもまた「畏れ」や「慎み」がなかった。
本当に冥の照覧を信じているのであれば、一々騒がしい活動報告なんぞ必要あるまい。もっと静かに、ひっそりと、水の流れる如く淡々と進めばよい。それができずに数の報告を競っているのが現状だろう。
学会本部も査問に味をしめているようだが、そのうち妙に威勢のいいのが出てきたら、死人が出てもおかしくないよ。