斧節

混ぜるな危険

諸法非我

・『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』友岡雅弥

 ・意業がカルマの基盤
 ・諸法非我

『神々の山嶺』夢枕獏
『すらすら読める 養生訓』立川昭二

諸法無我』も歴史上、大きく誤解されてきた言葉です。
 パーリ語では、――省略――と書きます。
 一切の事物は我ならざるものである、と訳されています。
 つまり、諸法非我です。
 仏陀は『無常であり苦であるものをわたし、わたしのもの、わたしの本体と呼んでいいだろうか』という言葉を繰り返し言っています。
 明らかに『非我』という意味です。
 この『非我』を『無我』と受け取ってしまったために、我(アートマン)がない、という意味になってしまいました。
 特に後世になればなるほど、仏教のバラモン教に対する独自性、優位性が極端に強調されていきます。最古層の仏典『スッタニパータ』では、仏陀のことをバラモンとかヴェーダの達人とか呼んでいたのに、後世になればそのような呼び方は全くしなくなります。バラモン教の匂いのするものは徹底的に排除していったのです。仏教は、『非我』を『無我』としてしまったために、アートマンがない、自己がない、主体がない、霊魂がない、死後の世界もない、輪廻転生もない、というように現代の仏教の一部はなっていきました。


【『仏陀の真意』企志尚峰〈きし・しょうほう〉(幻冬舎、2022年)】

 宮元啓一が同様のことを書いている。「釈迦の非我説は、詳しくは五蘊(ごうん)非我説といいます」(『仏教の謎を解く』鈴木出版、2005年)。宮元本を読んだ時は「そんなテクニカルなことはどうでもいいんだよ」と思った。私は昔から西洋の哲学が苦手で、形而上学なんぞには近寄りたくもないのだ。「言葉をこねくり回すことに意味はない」と自分では正当化してきた。

 最近になって非我説に傾いてきたのには理由がある。以前から悟りについて勉強しているのだが、非二元(ノンデュアリティ)関連書を読み漁っていると、「アイ・アム」主義っぽい傾向が明らかにあるのだ(『ただ一つの真実、ただ一つの法則:私は在る、私は創造する』エリン・ウェアリー、『アイ・アム・ザット 私は在る ニサルガダッタ・マハラジとの対話』スダカール・S・ディクシット編、など)。

 で、なんとなく「これじゃあ、アートマン主義だよな」と思い、もしもバラモン教回帰であるならば仏教が行った質的転換は何か? と考え込んでいたのだ。

 私が考える「我」とは、サティ(気づき)の主体である。

 日蓮流の考え方だと、「ただ心こそ大切なれ」の心ではない。「心の師とはなるとも心を師とせざれとは、六波羅蜜経の文なり」(真蹟あり)で説かれる「心の師」である。

「心」という言葉自体にも時代の変遷があって、日本人が考える心は、肚(腹)から胸(心臓)へ、そして現代では脳へと移動している。日蓮が生きた鎌倉時代はまだ肚と考えいたのではないか。切腹には身の潔白を明かす意味もあった。文字通り肚の内(=内蔵)を晒(さら)すわけだ。

 肚で決めるのは覚悟だ。胸は感情で、脳は思考(+情動)である。いずれにしても無意識領域まではカバーできていない。そこで唯識という発想が出てくるわけだが、認識に傾きすぎて依正不二のダイナミック性が失われているように感じる。

 非我なのか無我なのかは自分で悟る問題だ。頭で考えることではあるまい。悟ったら、また何か書くよ(笑)。