斧節

混ぜるな危険

たとえノコギリで手足を切断されようとも怒ってはならない

・『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
・『ブッダの真理のことば 感興のことば中村元
・『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話アルボムッレ・スマナサーラ
・『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟アルボムッレ・スマナサーラ
・『法句経』友松圓諦
・『法句経講義』友松圓諦
・『阿含経典』増谷文雄編訳
・『『ダンマパダ』全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』片山一良
・『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』ウ・ウィッジャーナンダ大長老監修、北嶋泰観訳注→ダンマパダ(法句経)を学ぶ会
・『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
・『ブッダのことば スッタニパータ中村元
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
・『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越えるアルボムッレ・スマナサーラ

 ・たとえノコギリで手足を切断されようとも怒ってはならない

・『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
・『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ

「比丘たちよ、また、もし、凶悪な盗賊たちが、両側に柄のあるノコギリで手足を切断しようとします。その時でさえも、心を汚す者であるならば、彼は、私の教えの実践者ではありません。
 比丘たちよ、そこでまた、まさにこのように、戒めねばなりません。すなわち、――私たちの心は、決して、動揺しないのだ。また、悪しき言葉を、私たちは発さないのだ。また、こころ優しい者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、私たちは生きるのだ――と。また、その人とその対象に対しても、すべての生命に対しても、増大した、超越した、無量の、怨恨のない無害な慈しみの心で接して生きていきます――と。比丘たちよ、まさしくこのように、あなたたちは戒めねばなりません。
 比丘たちよ、そして、あなたたちは、この、ノコギリのたとえの教戒を、つねに思い出すのであれば、比丘たちよ、あなたたちは、耐え忍ぶことのできない、微細もしくは粗大な、言葉を見出だせますか」
「尊師、見出せません」
「比丘たちよ、それ故に、この、ノコギリのたとえの教戒を、つねに思い出しなさい。それは、長きにわたり、あなたたちの利益のため、安楽のためになるでしょう」と。


【『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ日本テーラワーダ仏教協会出版広報部編(日本テーラワーダ仏教協会、2004年)】

 上記リンクの中で『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』だけは読んでいない。

 ブッダはスッタニパータの冒頭で怒りを蛇の毒に喩えている(「瞋恚(しんに)は善悪に通ずる」のか?)。それを軽く考えているところに凡夫の浅墓さがある。

 四悪趣は下に行くほど反応の速度がはやくなる。地獄の因は瞋(いか)りだ。「つい、カッとなって」人を殺(あや)めたということが現実に起こる。欲望には大事なことを見失わせる働きがあるが、怒(ど)の感情は自分自身まで見失い、すべてを破壊する行動へと駆り立てる。

 昨今はいじめやハラスメントを背景とした自殺が珍しくないが、これは怒りが内側に向かったケースだろう。私は常々、「なぜ仕返しをしなかったのか?」「不意討ちをすればいいだけのこと」「悪を道連れにしようと思わなかったのか?」などと悶々としてしまう。

 世間では怒りの感情は容認されている。日蓮の「瞋恚は善悪に通ずる者也」(「諌曉八幡抄」真蹟あり)と同じ認識だろう。ところがブッダセネカは完全に怒りを否定している。

「怒らないこと」は難しい。特に私のような者には。だが、「悟ること」はもっと難しいはずだ。たぶん怒りのコントロールを欠いて、世界をありのままに見つめることは不可能なのだ。

 日蓮の遺文(いぶん)に似た文章がある。

 縦(たと)ひ頚(くび)をば鋸(のこぎり)にて引き切りどうをばひしほこを以てつつき足にはほだしを打ってきりを以てもむとも、命のかよはんほどは南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経と唱えて唱へ死に死(しぬ)るならば釈迦多宝十方の諸仏霊山会上にして御契約なれば須臾(しゅゆ)の程に飛び来りて手をとり肩に引懸けて霊山へはしり給はば二聖二天十羅刹女は受持の者を擁護し諸天善神は天蓋を指し旛(はた)を上げて我等を守護して慥(たし)かに寂光の宝刹へ送り給うべきなり、あらうれしやあらうれしや。


【「如説修行抄」日蓮:真蹟はないが日尊による写本がある)】

 中部経典の影響があるように思えるが、ノコギリで首を切断する刑が近代以前の世界では共通していたのかもしれない。人間の残虐さは単純な形になりがちだ。

 ブッダの教えを知った後では日蓮の言葉が空(むな)しく響く。っていうか、ただの子供だましだよな。「あんたの教えは結局、他力本願だったのか?」と詰(なじ)りたくなる。

 怒りの制御とマントラ口唱は異質なものだ。そこに仏教東漸の変質が見える。