・『池田大作先生への手紙 私の自己批判をこめて』原島嵩 1980年
・『誰も書かなかった池田大作・創価学会の真実』原島嵩 2002年
・原島嵩が証言する言論出版妨害事件 その一
・原島嵩が証言する言論出版妨害事件 その二
・原島嵩が証言する言論出版妨害事件 その三
・正本堂問題の舞台裏
・創価大学の建学の精神を考案した原島嵩
・戸田会長も認めた原島嵩の教学力
昭和31年に、私は教学部の試験でかなりの高得点をあげ、一躍「講師」に抜擢されました。その時の面接担当者が池田大作と星野義雄(登山部長)でした。そのさい、会長室に案内されて戸田会長にお会いした記憶があります。戸田第ニ代会長には、まだ私が小学生のころ、当時の文京区雑司が谷にあった私の自宅を訪問してくださり、私と一局、将棋をさしたことがあります。
戸田第ニ代会長には星野義雄から報告が入っており、私のことを「すごい優秀な青年で、私の力よりはるかに上です」と報告がなされたことに、戸田会長が「それはそうだろうな。あの子にかなう人は今の幹部にはいないだろうな」との答えがあったとあとで父から聞きました。当時のわたしは、総本山第二十六世御法主上人で、中興の祖といわれる日寛上人の「六巻抄」を6回ほど熟読し、ほとんど暗唱するくらい猛勉強していました。一躍「講師」に抜擢された私は、頭は丸坊主の学生服姿でずっく靴を履いて、大田区方面で御書講義を担当しました。
【『絶望の淵より甦る 創価学会を脱会した歴史の生き証人 体験を通して真の信仰へ』原島嵩〈はらしま・たかし〉(日新報道、2007年)】
原島嵩は昭和13年(1938年)生まれなので高校3年生か。戸田が逝去する2年前のエピソードである。当時の世帯数は50万前後であろう。決して小さな教団とはいえない。その中にあって教学を重視していた戸田の目に止まったのだから、なにがしかの天才性を秘めていたのだろう。
当時の池田は参謀室長だと思われるが、池田・星野と言えば泣く子も黙る強面(こわもて)の二大巨頭と言ってよい。
原島は早稲田大学を卒業後、聖教新聞社に入社。2年後には「特別書籍」局長となっている。池田のゴーストライター部隊のトップである。30歳で教学部長、31歳で総務、32歳で創価学会の役員にまで上り詰めた。昭和54年(1979年)に至るまで池田の側近中の側近であり、後に池田が日興の真似をして作った弟子分帳の筆頭であったと記憶している。
原島嵩が創価学会を去った後の懐刀(ふところがたな)は山崎正友であった。池田の人生は常に「側近が離れてゆく」運命にあった。離脱者に対する創価学会の罵り方は異様に激しく、かえって反逆の烙印を押された人々への同情を誘う結果となっている。
“一躍「講師」に抜擢され”という文章が重複しているが、弱小出版社ゆえ校正の手が入っていないのだろう。
原島嵩を矮小化させないための記録として残しておく。
