四半世紀以上も書評を綴っていると、何を読んで何を書いたかも覚束ない。川面(かわも)に姿を見せた魚のように時折フッと記憶が立ち上がることがある。数日前に、あるテキストを見て何かがつながるような感覚があった。自分用の覚え書きとして残しておく。
「私は混沌とした融合しそうな世界から、私を私自身として浮かび上がらそうとした。しかし、それは徒労であった。一瞬気力が失せた時、私は世界に融合した。あたかも流れてとけ込むようであった。世界にとけ込みながら私は発病したと思った。私はどうなるのだろうか。私と密な関係にあるみんなに、何も残せないままで消える。私はうつろいでいて、やがて、無になった。そして無であることすらも消えてしまった。
無限なのか瞬時なのか、時の流れが感じられない。そこに消えていた私が、私というものになって点のように生まれてきた。私というものが流れに添(ママ)ってモコモコと肥大化してきた。私というものができ上がったようである。私があるのは分かるのだが、私がいるのが分からない。私は私の所在を突き止めようと、必死にもがいた。
私がどこにも位置しないで、暗黒の中で浮遊し漂っていた。意識だけがあり、その意識が不安定というものでつくられていた。不安定であるというその意識は鮮明であった。鮮明であるがゆえに、とどまることのできる位置を必要としていた」
これは手術を受けた患者が麻酔から醒める様子を語ったものである。自分で入力したにもかかわらず全く記憶がなかった。しかも、私は悟りに関する記述だと誤解した。慌てて本を引っ張り出して確認した次第である。
ヒントその一:我々は世界をはっきり認識していると錯覚する。混濁した意識が実は普段よりも拡大している可能性がある。眠りに落ちる直前や、起床寸前に閃(ひらめ)きが訪れる事実がそれを裏づける。
戸田城聖が枕元にメモ紙を置いていたのは広く知られたエピソードである。
