・二乗の真実
10年ほど経つと人の考えがどう変わるかを残しておこう。
二乗がバラモン出身者であったことを踏まえると、大いに首肯できる話だ。「二乗不作仏」とは、彼等に巣食う拭(ぬぐ)い難いまでの「差別意識」を、仏が破折したものかも知れない。
まるで社会主義者が書いたような文章である(笑)。戦後教育に毒されて差別=悪、平等=善という概念に取り憑(つ)かれている。ステレオタイプ思考は楽でいい。善悪の理由を一々考えなくて済むから。平等概念の汚染は既にLGBTや外国人参政権にまで及びつつある。中国で文化大革命の嵐が吹き荒れた時、学生は教師に襲いかかり、子は親を殴った。確かに「平等」だ。
私がE・H・カー著『歴史とは何か』を読んだのは2011年で、ジュリアン・ジェインズ著『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』を読んだのは2013年のこと。この強烈な2冊によって上書き更新された頭で考えると、二乗の全く異なる姿が浮かび上がってくる。
すなわち、二乗とは左右の脳の統合によって「思考することが可能になった人々」であった。脳の構造や機能は一部の人から徐々に広まっていたことだろう。当時はまだまだ右脳の声に左脳が従う二分心状態(その名残りが統合失調症)が圧倒的多数であったに違いない。「歴史の一部であるよりは、自然の一部だった」(E・H・カー)人々はまだ論理的に思考することができなかった。また、脳が統合に向かう状態にあったが、境界知能の人々も多かったことだろう。
我々がど田舎の風習や未開人の文化に遭遇して違和感を覚えるのは「非合理な蒙(くら)さ」であり、そこに右脳の命令に従う左脳の痕跡を感じるためと思われる。
3000年前に意識が誕生したと仮定すれば、その時代の天才として時代を牽引(けんいん)したのが枢軸時代の教師たちであったことが腑に落ちる。
二乗とは現代人に通じる「ものの考え方」ができる人々であった。彼らが少数であったとすれば、大衆はまだまだ動物的な反応しかできなかったことだろう。機根を上中下根に分けているのも一つの証拠と考える。あらゆる宗教が罪と罰で信者を脅すのも、思考することに慣れていない大衆のための方便なのだろう。
