・VRという妄想
私の予想としては、これから100年以内に現実世界を見分けのつかないVR(バーチャルリアリティ)が実現される。脳とコンピュータが直接に信号をやりとりするブレイン・コンピュータ・インターフェース(BCI)用の装置をつけて、目や耳などの体の感覚器を迂回するようにもなるだろう。その装置は、現実世界の精緻(せいち)なシミュレーションが可能で、その現実空間にあるすべてのものの動きを追跡するために物理法則をシミュレートしている。
ときにVRは別バージョンの日常世界となる。またときには、私たちをまったく新しい世界へ没入させてくれる。おそらくアップル社はVR上に職場を持つようになる。そこでは情報は厳密に保護され、現実世界で開発中のものに関する最新情報が漏(も)れることはない。アメリカ航空宇宙局(NASA)がつくるVRの宇宙では、光速を超える宇宙船で銀河を探検する。また、人々が永久に生きつづけられる世界もつくられるだろう。バーチャル不動産の開発業者は顧客の求めに応じて、ビーチの近くで、申し分のない気候の世界や、活気のある都市に建つ豪華なマンションを競って提供するだろう。
【『リアリティ+ バーチャル世界をめぐる哲学の挑戦』デイヴィッド・J・チャーマーズ:高橋則明〈たかはし・のりあき〉訳(NHK出版、2023年/原書、2022年)】
21世紀の代表的なテクノロジーといえば、ビッグデータ、ディープラーニング、3Dプリンタ、ブロックチェーンなどが思い浮かぶが、その中にあってVR技術はやや足踏みしている感がある。FacebookがMetaに社名を変更したのが2021年末のこと。で、3年以上を経たがメタバースに関する大きなニュースは伝わってこない。
現実世界にデジタル技術を応用する方法は拡張現実(AR)・仮想現実(VR)・複合現実(MR)の三つがある。私が拡張現実(AR:Augmented Reality)を知ったのはターミネーターの視界だった。
あたかも、職人やスポーツ選手の感覚と、設計士や科学者の知識が視認化されているように思えた。例えば私は人生の5%ほどを検索に費やしているが、スマートグラスで視界に検索結果を表示することができれば知識は不要になるかもしれない。
複合現実(MR:Mixed Reality)に関しては医療、工業設計、建築、リモート作業、教育などで既に活用されている。
仏教では妄想(もうぞう)と読む。妄想=マーヤー(Māyā)の原因は三毒(貪瞋癡)である。我々は現実を「確固たる世界」と認識しているが、これまた妄想である。凡夫は諸行無常の変化相を認識できない。
妄想を払拭する修行が瞑想である。あらゆるものは移り変わる(無常)、そして、あらゆるものには実体がない(空)と覚知することで執着から離れることが可能になる。
VRという妄想の隣に位置するのはドラッグ(薬物)だ。五感をハックすることが目的であれば薬物の方が手っ取り早い。実際にそういう歴史があったのだ。
1950年代、ヨーロッパの精神療法でLSD(幻覚剤)を用いる試みが始まった。1960年代にヒッピームーブメントが起こると、彼らは社会に反逆し、ベトナム戦争に反対を唱え、一部の者は悟りを求めてインドへ飛んだ。ビートルズは超越瞑想(TM)を学び、スティーブ・ジョブズは7ヶ月間の旅をしながらヒンドゥー教と仏教を学んだ。尚、ジョブズが行ったカインチ・ダムにはマーク・ザッカーバーグも後年訪れている。
「悟りが非日常ならトリップでもいいんじゃね?」と思う連中が出てくるのに時間はかからなかった。元々ヒッピーたちはラリっているようなのが多かった。オルダス・ハクスリーなどの著名人も後押しした(『知覚の扉』)。『すばらしい新世界』に出てくる「ソーマ」という薬もハクスリーのLSD体験が元になっている。最近はあまり聞かなくなったが、「サイケデリック」という言葉はLSDによって引き起こされる感覚のことだ。
長くなったので結論を述べよう。VR技術の進歩は悟りを誘引する可能性がある。LSDに匹敵するほど五感を乗っ取ることができれば、という条件つきだが。とはいうものの、VR情報が「新しい妄想」になる可能性も高い。

