斧節

混ぜるな危険

「これはおれだよ」

・『メッセージ 告白的青春論』丸山健二
・『君の血は騒いでいるか 告白的肉体論』丸山健二
・『まだ見ぬ書き手へ』丸山健二
・『野に降る星』丸山健二

 ・「これはおれだよ」

『見よ 月が後を追う』丸山健二

 私は消火栓だ。
 先日毒々しい色に塗り直されたばかりだというのに、相変らず少しも目立たない消火栓だ。それでも私は孤独ではない。酔っ払いたちは私に抱きついて内々の話をしたがり、放し飼いにされている犬どもは競って私に小便を掛けたがり、野育ちの少年世一は私の頭をひと撫でしないことには決して通り過ぎない。そして銀色に輝く白髪の老婆は、朝な夕なに声を掛けてくる。そのことにほとんど誰も気づかないのは、彼女の腰がひどく曲っていて、顔の位置が私の高さとちょうど同じだからだ。
 老婆の言うことはいつも変らない。「ご苦労さんだねえ」とそればかりだ。だが、彼女が私の本来の役目を理解しているかどうかは甚だ疑問だ。その証拠に、郵便物を押し込まれそうになったことが、これまでに幾度かあった。そうかと思うと、迷子だときめつけられてしまったこともあった。
 きょう、老婆は私の前で世一とかち合った。さかんに私を撫で回す世一に向って、老婆は「おまえはこの子の友だちかい?」と訊いた。すると世一は全身の震えを唇に集中し、途切れ途切れに、友だちなどではないと答え、「これはおれだよ」と言った。だが、老婆の遠くなった耳には正しく伝わらなかった。彼女には、ただの消火栓だとそう聞えた。
 世一は冷たい風に吹かれて通りを横切って行った。取り残された老婆は、私に両腕を回して子を抱き寝する母親になり済ました。(11・30・水)


【『千日の瑠璃』丸山健二〈まるやま・けんじ〉(文藝春秋、1992年/文春文庫、1996年/究極版、2014年)以下同】

言葉では到達できない」関連テキスト。

 好きな場面で数十回は読んでいる。「これはおれだよ」という世一〈よいち〉の一言は哲学的な響きを伴って存在論の個別性を軽々と超越する。映画『マトリックス』の「スプーンはないんだ。曲げるのはスプーンじゃなくて自分自身だよ」という科白(せりふ)にも通じる余韻がある。

 丸山の言葉の正確さと合理的な文章はどこか三島由紀夫と通い合うものがある。

「おまえはこの子の友だちかい?」「これはおれだよ」の落差に丸山の毒とユーモアが上手く出ている。

 丸山はもちろん悟りとは無縁だが、小学生の時に「心にぼかっと風穴が空いた」という喪失体験をしている。音がしたというのだから、よほど衝撃的な体験だったに違いない。それ以降、丸山はニヒリストになる。現在であればサイコパスと言い換えてもよい。

 詳細は不明だが高校卒業も1年遅れている。それを何とも思ってなく、チェーンを振り回して喧嘩に明け暮れた人物だ。ハーマン・メルヴィルの『白鯨』の影響を受け、船乗りを目指して国立仙台電波高等学校を卒業したのち商社に就職。テレックス・オペレーターを務めた。元々、読書家でも何でもない荒くれ者だったが、職場で文章を簡潔にまとめる技術を磨いたようだ。

 23歳の時、突然小説を書き、それが芥川賞を受賞した(『夏の流れ』)。当時、23歳での受賞は石原慎太郎・大江健三郎と並んで最年少だった(その後、綿矢りさが19歳で受賞)。当初から文壇との付き合いを拒否し、長野県の山奥で書き続けた。

『野に降る星』に続いて読んだのが本書だった。忘れもしない1998年のこと。私がネットデビューした年であり、初めて後輩の家から書き込んだのが丸山健二ファンが集う掲示板だった。本書は古いファンからはけちょんけちょんに貶(けな)された。私は一人異論を申し立てた。「1000の主語が語る世界を知れば、仏教の一念三千が身近に迫ってくる」と(笑)。

 1ページごとに変わる主語が「次は何なのか?」と頁を繰る手がもどかしいほどの勢いで私は読んだ。そして今も読んでいる。もう5回目だ。確かに物語性は乏しいが、辞書として読めばいいのだ。

 私が文体の手本としているのは、丸山健二と小田嶋隆なのだ。

 尚、本書については究極版が出ているが、「文章が長くなる」という致命的な過ちを犯している。旧版がおすすめだ。世一の最後については『見よ 月が後を追う』で短く描かれている。

 カバー(表紙)は、国宝「紙本著色日月四季山水図」(作者不詳)の部分である。