・『人生論ノート』三木清
・『ナポレオン言行録』オクターブ・オブリ編
・『読書について』ショウペンハウエル:斎藤忍随訳
・他人に奪われた時間
・皆が他人のために利用され合っている
・長く翻弄された人生
・愛と憎とを命令されて行なう者たち
・『怒りについて 他一篇』セネカ:茂手木元蔵訳
・『怒りについて 他二篇』セネカ:兼利琢也訳
どんな人でも自分の地所をとられて黙っている者はないし、また領地の境界について、たとえ小さなもめ事が生じても直ちに投石や武器に訴える。だが、自己の生活のなかに他人が侵入することは許している。いや、それどころか、今に自分の生活を乗っ取るような者でさえも引き入れる。自分の銭を分けてやりたがる者は見当たらないが、生活となると誰も彼もが、なんと多くの人々に分け与えていることか。財を守ることには吝嗇(けち)であっても、時間を投げ捨てる段になると、貪欲であることが唯一の美徳である場合なのに、たちまちにして、最大の浪費家と変わる。そこで、沢山の老人のなかの誰かひとりをつかまえて、こう言ってみたい。「あなたはすでに人間の最高の年齢に達しているように見受けられます。あなたには100年目の年が、いやそれ以上の年が迫っています。そこで、あなたの生涯を呼び戻して総決算をしてみませんか。勘定(かんじょう)してください。あなたの生涯のどれだけの時間を債権者が持ち去ったか、またどれだけを愛人が、どれだけを主君が、どれだけを子分が、またどれだけを夫婦喧嘩(げんか)で、どれだけを奴隷の処罰で、どれだけを公用で都じゅうを走り廻って。これらに病気をも加えてください、私たちが自らの手で招いた病気を。また使わぬままに投げ出した時間をも加えてください。するとお気付きになるでしょうが、あなたが持つ年月は、あなたが数える年月よりも、もっと少ないでしょう。記憶をたどりながら、ご自身のことを再び思い出してください。いつあなたは自分の計画に自信をもったか。自分が決めたように運んだ日はいかに少なかったか。いつ自分を自由に使うことができたか。いつ顔付きが平然として動じなかったか。いつ心が泰然自若としていたか。あなたがこんな長い生涯の間に行なった仕事は一体何であるか。いかに多くの人々があなたから生活を奪い去ったことか――失ったものにあなたが気付かないうちに。いかに沢山のものが無益な悲しみや、愚かな喜びや、飽くことのない欲望や、こびへつらいの付き合いによって持ち去られたことか。あなた自身のものが、いかに僅かしかご自身に残っていないか。そのうちお分かりのことと思うが、あなたはまだ未熟のうちに亡くなることになるでしょう。」では以上の原因は何であろう。諸君は永久に生きられるかのように生きている。諸君の弱さが諸君の念頭に浮ぶことは決してない。すでにどれほどの時間が過ぎ去っているかに諸君は注意しない。満ち溢れる湯水でも使うように諸君は時間を浪費している。ところがその間に、諸君が誰かか何かに与えている一日は、諸君の最後の日になるかもしれないのだ。諸君は今にも死ぬかのようにすべてを恐怖するが、いつまでも死なないかのようにすべてを熱望する。
【『人生の短さについて』セネカ:茂手木元蔵〈もてぎ・もとぞう〉訳(岩波文庫、1980年/岩波クラシックス、1982年/ワイド版、1991年/大西英文訳、2010年『生の短さについて 他二篇』)】
はっきり言おう。創価学会に奪われている時間の何と多いことか。教団という教団は信者の人生を大幅に侵食し、その時間を弄(もてあそ)ぶ。以下に古い記事を転載しておく。
教団内の差別構造
宗教社会学で「制度宗教」という言葉がある。一般的にはカトリック教会を中心とするヨーロッパ社会の伝統形成を示している……はずだ。多分。つまり広く受け容れられた宗教が、暗然と社会をバックアップすることで、我が世の春を謳歌しようとしたわけだな。
社会制度は政治的・法律的・経済的関係性を規定し、宗教は善悪・正義・罪と罰を設定する。とすると制度宗教が形成されるや否や、外側(社会)と内側(内面心理)がシステムというロープでがんじがらめになる。
インドにおけるヒンドゥー教も制度宗教と考えてよかろう。もちろん中東におけるイスラム教も同様だ。
これら三つの宗教と地域に共通しているのは「恐るべき暴力性」といってよい。中世の魔女狩り、イスラム圏の女性差別、インドのカースト制度がその典型だ。
制度宗教の前段階として組織宗教が形成される……と思う。教団の組織化は権力構造のシステム化であり、布教運動のシステム化と考えられる。ま、信仰の栽培みたいなものだな。
システムにはルールが必要だ。では布教に意欲的な教団を見てみよう。創価学会とエホバの証人を例に挙げる。伝統宗教から異端視されていることや、教義重視の宗教性が共通している。
エホバの証人の場合、バプテスマという洗礼を受けると正式なメンバーとして認められる。それから半年を経過すると正規開拓者になることができる。正規開拓者には年間840時間(70時間/月)の証言活動(伝道)が課される。更に宣教者や特別開拓者に使命されると、月に130時間の証言活動を誓約する。
創価学会の場合は入会後、勤行・唱題の励行、座談会・協議会・御書学習会への参加、聖教新聞の購読が会員としての活動となる。創価学会員は会員数が多いため、行政区単位で6層の組織構造(ブロック、地区、支部、本部、分区、総区)を形成している。真面目に活動をしていれば1年ほどで役職が与えられ、上がれば上がるほど忙しさが増す。幹部になると主要な活動は折伏・新聞啓蒙の推進、公明党支援、財務となる。
フム、似ているわな(笑)。明らかなノルマ、明確な運動性、教団内での評価・顕彰。始めに指示・命令・要求ありき。
厳密にいえばエホバの方がはるかに勉強している。創価学会にあるのは運動性だけだ。祈る行為すら運動と化し、時間を競い合っている。組織の成果はすべて「量」に換算され評価が決まる。財務は志よりも金額が重視される。
教団は「第二の社会」となって別のヒエラルキー構造を形成する。そして内部における差別意識が実は運動の原動力となっている側面がある。
社会という競争があり、宗教という競争がある。我々は「比較される対象」でしかない。人間の顔を失った布教は、単なる装置であろう。
学会幹部が起こした事件の被害者に対して、ある副理事長は「学会に迷惑をかけるな、先生に迷惑をかけるな」と指導した。この言動に宗教性はひとかけらもない。一流企業の取締役みたいな発想だ。ま、我々の運動がビジネスであるとすれば、この野郎の話は腑に落ちる。
追伸――日曜日だというのに立て続けの電話があり、中途半端な文章となってしまった。
【2011-02-20】
