・『人生論ノート』三木清
・『ナポレオン言行録』オクターブ・オブリ編
・『読書について』ショウペンハウエル:斎藤忍随訳
・他人に奪われた時間
・皆が他人のために利用され合っている
・長く翻弄された人生
・愛と憎とを命令されて行なう者たち
・『怒りについて 他一篇』セネカ:茂手木元蔵訳
・『怒りについて 他二篇』セネカ:兼利琢也訳
それゆえ、髪が白いとか皺(しわ)が寄ったているといっても、その人が長く生きたと考える理由にはならない。長く生きたのではなく、長く有ったにすぎない。たとえば或る人が港を出るやいやな激しい嵐に襲われて、あちらこちらへと押し流され、四方八方から荒れ狂う風向きの変化によって、同じ海域をぐるぐる引き回されていたのであれば、それをもって長い航海をしたとは考えられないであろう。この人は長く航海したのではなく、長く翻弄されたのである。
【『人生の短さについて』セネカ:茂手木元蔵〈もてぎ・もとぞう〉訳(岩波文庫、1980年/岩波クラシックス、1982年/ワイド版、1991年/大西英文訳、2010年『生の短さについて 他二篇』)】
人生に自分の意志を反映できているかどうかである。会社や組織は「仕事」を与えてくれるが、結果的に利用されているだけの恰好になってやしないか? 生活のためとはいえ、あまりにも賃金と引き換えにしているものが多くはないか? 理不尽な転勤や出向など煮え湯を飲まされすぎてはいないか?
創価学会員は「使命」という言葉が大好きだ。自分が地涌の菩薩の生まれ変わりであると信じることは心地よいものだ。だがそれは、飽くまでも他人が決めた「設定」に過ぎない。しかも、生前のブッダはそんなことを説いていないのだ。法華経の成立は、紀元50年から150年頃にかけてインド北西部で成立したと考えられている。
湧出品に「父は少(わか)く子は老ゆ」(うろ覚え)とある。釈尊が子供に見えるほど地涌の菩薩には貫禄があったというのだ。んなことあるわけねーだろ(笑)。こういう仕掛けにヒンドゥー教的臭みがある。SF作品としては秀逸だが。
今ふと疑問が湧いたのだが、法華経成立時で既に本化(ほんげ)・迹化(しゃっけ)という思考様式があったとすれば、末法思想もこの頃生まれたのだろうか?
では、辛い事実を述べよう。「そして恨みを晴らすため誰よりも長く生きることに固執した」(『創価学会秘録 池田大作と謀略と裏切りの半世紀』高橋篤史)。晩年の13年間をどう考えればよいのか? よもや、「池田先生には使命がなかった」とは口が裂けても言えまい。腹話術さながらの「メッセージ」や「ご伝言」を鵜呑みにする学会員がいるとも思えない。
「長く生きたのではなく、長く有ったにすぎない」――セネカの言葉が鋭い痛みを伴って胸に突き刺さる。
