・『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ 若き医師が死の直前まで綴った愛の手記』井村和清
・『精神の自由ということ 神なき時代の哲学』アンドレ・コント=スポンヴィル
・『ザ・メンタルモデル 痛みの分離から統合へ向かう人の進化のテクノロジー』由佐美加子、天外伺朗
・『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
・『わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと』サリー・ボンジャース
・『悟り系で行こう 「私」が終わる時、「世界」が現れる』那智タケシ
・『瞑想メソッドで始めるメンタル強化法 もう“左脳”に振り回されない』枡田智
この変容状態では、わたしの心はもはや、いつも脳が外の世界で人生というものを定義し、導いてくれていたことなんて、どうでもよくなってしまいました。外の世界との折り合いをつけてくれていた、脳の中の小さなささやきも聞こえません。脳のおしゃべりの声がないまま、過去の記憶と未来の夢は霧散(むさん)していきました。ひとりぼっちです。その瞬間は、リズムを刻む心臓の鼓動を除いては何もない、孤独な状態でした。
でも、傷ついた脳の中で広がる虚空(こくう)に、うっとりと魅せられてしまいました。脳の中に静寂が訪れ、絶え間ないおしゃべりからひととき解放されたことがうれしかった。あのおしゃべりは、今となっては騒がしい外界の些細(ささい)なことでしかない。わたしはひたすら焦点を内に向け、何兆もの輝く細胞の変わらぬ努力のくりかえしに気持ちを向けました。細胞たちは仕事熱心に、互いに同期して、からだの恒常性(ホメオスタシス)を維持しようと努力しているのです。血液が脳に流れ込むにつれて、意識のレベルはだんだんと下がり、広大で不思議な世界を内部に抱いた心が満ち足りていくのを感じるようになってきました。小さい細胞たちが、生きものとしての存在であるわたしを維持するだけのために、一瞬ごとに素晴らしい働きをしてくれている。そのことに魅惑されると同時に、謙虚な気持ちになってゆきました。
【『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー:竹内薫〈たけうち・かおる〉訳(『奇跡の脳』新潮社、2009年/新潮文庫、2012年)】
続きのテキストを。「死ねば仏」を保証するような証言である。個人的にはたとえ非業の死(事故死や殺害)であったとしても、同じような状態はあり得ると考えている。たぶん、極楽往生から生まれた言葉なのだろうが、因果応報の「ざまあみろ的」な心性(しんせい)の暗さがない。死苦の向こう側に救いがあったとしても決しておかしな話ではない。
死の意味を問うことは、そのまま生を照らすことに通じる。中世の修道院ではラテン語の「メメント・モリ」(死を想え、死を忘れるな)が挨拶の言葉であった。
ネドじゅんを通してはっきりとわかったことだが、ここで描かれているのは右脳世界だ。脳内出血が左脳で起ったため、ジル・ボルト・テイラーは言語機能を始め、「私」という感覚すら失い、体の境界まで認識不能になっていた。この後、職場の同僚に電話をするのだが、如何せん言葉が出てこないのだ。左脳機能を失った彼女が完全に復活するまで8年間を要している。
ここで大きな疑問が湧いてくる。「なぜ、私は世界をそのように感じることができないのか?」と。
答え――左脳が阻止しているから。言葉、論理、常識、ルールに支配された脳は、私-世界、私-あなたという対立構造で一切を認識する。つまり、左脳は世界を分断するのだ。ここから違い・差別・優劣などを巡るゲームが始まるのだろう。比較と評価に取り憑かれた我々が不幸な所以(ゆえん)である。
内なる世界と外なる世界が完全に溶け合い、喜びと感謝に包まれながら、「私」が存在しない世界は何と美しいことか。此岸即彼岸と開くことができれば、悟るべきは「今ここ」という一点だけなのだろう。
