斧節

混ぜるな危険

無駄な会議が奪うエネルギー

 ・会議はアイディアを生み出す現場である
 ・無駄な会議が奪うエネルギー

・『偏愛マップ キラいな人がいなくなる コミュニケーション・メソッド齋藤孝
・『呼吸入門齋藤孝
・『身体感覚を取り戻す 腰・ハラ文化の再生齋藤孝
・『息の人間学 身体関係論2齋藤孝
『坐(すわ)る力』齋藤孝

 報告・説明が延々とつづく退屈な会議で、私の隣の人は車の絵を描いていました。ほれぼれするほど上手な絵でしたが、それはじつに象徴的な光景でした。走りたいんでしょう。もっと自分の能力をフルに活動させて、走りたい。しかもその人は車を書くだけではなくて、タイヤから斜線を出して勢いを出して走らせていました。
「この人のこの埋もれていくやる気とエネルギーをどうするんだ、あなたは?」
 と、会議の主催者に問いたい思いに駆られました。
 会議の主催者は能力とエネルギーをそれだけ奪っている自覚があるのか。その責任をどう取るのか。
 そういうことに感性のない主催者ほど、自分の話す量が多い。会議の主催者であるにもかかわらず、他の人の意見を上手に回すどころか、自分が話してしまう傾向があります。


【『会議革命』齋藤孝〈さいとう・たかし〉(PHP研究所、2002年PHP文庫、2004年)】

 会議や朝礼はその会社の縮図である。日本企業の場合、薄気味悪い朝礼が多いように思う。そうでないと言うのであれば、朝礼の様子を動画撮影してアップしてみればよい。社訓の唱和など時代錯誤も甚だしい。そもそも毎朝唱えなければ覚えられないような社訓に意味はない。

 Google社の理念は「世界中の情報を整理し、世界中の人々がアクセスできて使えるようにすること」である。Meta社(旧フェイスブック)は「人々をつなぐ技術を開発し、世界をより良くする」で、amazon社が「地球上で最もお客様を大切にする企業」である。皆、一様にシンプルだ。そして嘘や飾った言葉がない。

 日本の場合、理念が後づけになるケースが多いのではないか。ともすると、コンサル会社に「理念を作って」と丸投げするような企業があるかもしれない。理念や哲学、あるいはコンセプトから立ち上げる会社は稀(まれ)だ。どちらかというと、伝統が理念を形成しているように見える。

 ところが昨今は、企業の寿命が短くなりつつある。一つのミッションを果たせば十分という考え方すらある。

 日本語の「会社」の原義は、「目的を持って人々が集まった組織・集団」というものだ。「company(カンパニー)」の翻訳語であるが、英語の「company」は、ラテン語の「companio(パンを分け合う仲間)」に由来している。

 ということは、目的ごとに離合集散するのは会社の原義に沿った動きと言えよう。

 親方日の丸で税金の甘い汁を吸い続けている大企業が日本の商風土を腐らせ、自由競争を阻害している。ベンチャー企業を支援する体制も弱い。正しい意味での投資が行われない。担保や社長の個人保証を必要とするのは単なる金貸しで投資ではない。

 日本人の会議下手には理由がある。元々日本の古い形の民主政は「全員一致」が必須条件だったのだ。そのため、事前のネゴシエーションを重視するあまり、実際の会議が形式的になってしまうという伝統がある。

 会議は一種の並列処理である。参加者全員の脳味噌をつないでも何かを創発できないのであれば、社長のワンマン経営であり、社長と共に必ず会社は衰えてゆくことだろう。