斧節

混ぜるな危険

無神論者殿御返事

 ・ブッダが解決しようとした根本問題は「相互不信」
 ・無神論者殿御返事
 ・人を殺してはいけない理由
 ・日常の重力

『仏陀の真意』企志尚峰
・『悩んで動けない人が一歩踏み出せる方法』くさなぎ龍瞬
・『ブッタの思考法でアタマすっきり! 消したくても消えない「雑念」がスーッと消える本』くさなぎ龍瞬
『反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」』草薙龍瞬
・『これも修行のうち。 実践!あらゆる悩みに「反応しない」生活』草薙龍瞬
・『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』草薙龍瞬
・『自分を許せば、ラクになる ブッダが教えてくれた心の守り方』草薙龍瞬
・『こころを洗う技術 思考がクリアになれば人生は思いのまま』草薙龍瞬
・『心の出家 変わらぬ日常をもっとラクに生きたいあなたへ』草薙龍瞬
・『人生をスッキリ整えるノート(今が一番幸せといえる自分を作る)』草薙龍瞬
・『ストレスと闘う日々にやすらぎを取り戻す 怒る技法』草薙龍瞬
・『消えない悩みのお片づけ』草薙龍瞬
アルボムッレ・スマサナーラ

「神も仏もあるものか」――そう言われると「確かに」と返答したくなるような世相である。ま、言わないけどさ。私は常にこう答えている。「確かにそうだよな。飛行機やロケットが飛ぶ時代だから、天上に神がいないことは既に確認済みだ。で、仏なんだが、実はいるんだよなあこれが。会ってみたいか? そうか、じゃあしようがねえわな……。目の前にいるよ。そう。俺だ。そして、神も仏も信じていないお前すら仏なのだ。ざまあみやがれ」と。

 本当はもう少し色んなことを話している。「おう、生意気を言う前にだな、てめえは神や仏のことをどれだけ知っているってえんだ? さっさと答えてみやがれ! 200字以内で定義してみせろや、こらあ!」とも言っている。多分、誰も知らなかったことと思うが、私は聖人君子ではないのだ。あ、知ってた。そう。そいつあ、手間が省けて助かるよ。

 さて、よく「俺は無神論者だ」などという人がいます。
無神論」という言葉が、例えばヨーロッパではどのような戦いの中で、勝ち取られてきた言葉か――自称「無神論者」の人たちは理解しているでしょうか。「神」の権威を振りかざす王や権力者との間で行われた戦いの熾烈さを、想起しているのでしょうか。少なくとも、「真の無神論者」は、真剣に信仰に生きている人をバカにしたりはしません。おそらく「真の無神論者」がもっとも嫌悪するのが、年中行事として形骸化した葬式でしょう。それこそが、権力者が作り上げた「虚構の共同体の維持装置」なのですから。
 しかし、日本の自称「無神論者」はしっかり、初詣には行くのです。神殿の前でしっかり、「本年一年無病息災、商売繁盛」と祈るのです。言葉の厳密な意味で「無神論者」が最も批判するのは、日本的な「仮称無神論者」かもしれません。
「初詣は宗教じゃない。みんなやっている習慣なんだ」。しっかり神だのみをしている事実を覆い隠すように「仮称無神論者」は言います。この「習慣」というのが曲者(くせもの)なのです。「習慣」とは、権力者が作り上げた「虚構の共同体の維持装置」なのです。ミシェル・フーコーが「権力のまなざし」として感じ、ヴァルター・ベンヤミンが「勝者の歴史」と見抜いたものに通じるのです。そして、まさに仏教が疑問を投げかけた、サンカーラそのものなのです。


【『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』友岡雅弥〈ともおか・まさや〉(第三文明社、2000年)】

「サンカーラ」というのは、通常は「行」とか「反応」と訳されているようだが、友岡氏は「皆が当たり前と考えている常識および社会構造」という意味合いで使っている。ま、菩提樹の下に座る前の釈尊が、苦行を否定したことを思い合わせれば何となく理解できるだろう。

 善悪というものは固定された価値観ではない。時に、小さな親切が大きなお世話となることも珍しくない。例えば我々学会員は、世界中から善を掻き集めたほどの自覚で折伏を行じているが、果たして本当に善なのだろうか? そうとは言い切れないだろう。強引な布教が「学会嫌い」を育成している場合もある。大体だな、純粋な折伏自体が少なくなっている事実に目を伏せてはいけない。幹部から煽られて、何とか成果にこぎつけているような姿が多い。広宣流布を「やらせられている」のが多いんだよな。

 話を戻そう。西洋における“神の否定”は、絶対的な権力として君臨していた教会と闘うことを意味していた。中世の西洋史をひもとくと、そこには陰惨なまでの残虐さに満ち、死臭が立ち込めている。教会は「魔女狩り」と称して、自分達に歯向かう者を拷問してから死に至らしめた。「のろのろと燃える生木の火刑」では、1時間以上も死ぬことができず、「もう少し薪(たきぎ)を加えて下さい」という絶叫も無視された(森島恒雄著『魔女狩り岩波新書)。

 中世においては、教会の許可がなければ勉強することすらままならなかった。であるがゆえに、かの時代の高名な科学者はいずれも教会関係者だった。19世紀のイギリスにおいてですら、女性が「本を買うこと」はなかったのだ。現代科学の父ともいうべきニュートンですら、論文の発表を躊躇(ちゅうちょ)していた。ダーウィンの『進化論』も同様だ。

 つまり、だ。神を否定することには命懸けの覚悟が必要だったのだ。地動説を唱えたガリレオは異端裁判にかけられ、その後の余生は軟禁状態を余儀なくされた。ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世ガリレオ裁判の誤りを認めたのは、実にガリレオの死後から350年後のことだった。ところが現在のローマ法王ベネディクト16世は、ガリレオ裁判を正当化するような発言をして物議を醸(かも)している。教会ってえのあ、一筋縄ではいかないようだ。

 無神論者を名乗る人は大抵の場合、金銭的な価値を重んじている。その程度の価値判断しかできないため、神仏と同様、自分すら信じていないのが実態だ。

2008-12-13