斧節

混ぜるな危険

ホタルになって帰ってきた特攻隊員

・『国民の遺書 「泣かずにほめて下さい」靖國の言乃葉100選小林よしのり責任編集
・『大空のサムライ 死闘の果てに悔いなし坂井三郎
『父、坂井三郎 「大空のサムライ」が娘に遺した生き方』坂井スマート道子

 ・ホタルになって帰ってきた特攻隊員

・『今日われ生きてあり 知覧特別攻撃隊員たちの軌跡』神坂次郎
・『月光の夏』毛利恒之
・『神風』ベルナール・ミロー
・『高貴なる敗北 日本史の悲劇の英雄たち』アイヴァン・モリス

特攻の母
 ――鳥浜とめさんの話――


 知覧町中郡(なかごおり)にあった、鳥浜とめさんの富屋食堂は、知覧分教所が開校されていら、軍の指定食堂になっていました。特攻隊員として知覧飛行場にきた隊員たちは、鳥浜とめさんのことをいつしか「おかあさん」と呼ぶようになっていました。
 昭和20年3月、沖縄方面に対する特攻作戦が始まってからというもの、鳥浜とめさんは家財道具を売ってまでも、最後の思い出にと富屋食堂を訪れてくる特攻隊員たちをもてなしたのです。
 以下は、鳥浜とめさんが特攻隊員たちの思い出を語ってくれたものです。


〈(前略)宮川三郎軍曹は出撃の前夜、わたしのところへあいさつに来られ、
「明日わたしは沖縄に行き、敵艦をやっつけてくるから、帰ったときには、宮川、帰ってきたかと喜んでください」と言うので、
「どんなにして帰ってくるの?」
 と尋ねたら、
「ホタルになって帰ってくる」
 と言うのです。そしたら、約束の時間にホタルがやってきたんです。富屋食堂の裏に小川が流れていたのですが、そこに、1匹の大きなホタルがやってきて、白い花にとまったのです。本当に大きなホタルでした。思わず、みんなに、
「このホタルは、宮川サブちゃんですよ」
 と言ったんです。そして、みんなでそのホタルを見ながら、『同期の桜』を歌いました。


 特攻の方々が征かれるときはにっこりと笑って、嫌とも言わず、涙ひとつ落とされませんでした。さぞ肉親の方々にも逢いたかっただろうに、日本を勝たせるために、早く征かなければと、ただそればかりを言っていました〉


【『新編 知覧特別攻撃隊 写真・遺書・遺詠・日記・記録・名簿』高岡修〈たかおか・おさむ〉編(ジャプラン、2010年/村永薫〈むらなが・かおる〉編、ジャプラン、1991年『知覧特別攻撃隊 写真・遺書・日記・手紙・記録・名簿』改題)】

早田ひな選手「鹿児島の特攻資料館行きたい」「卓球できること、当たり前じゃない」

 広く知られたエピソードである。初めて読んだ時も、そして今、キーボードを叩いている時も涙があふれてくる。「そういうこともあるだろう」と私の心に疑念の風が吹くことはない。

 九州には一度も足を運んだことがないのだが、知覧には一度行きたいと前々から思っていた。大東亜戦争の敗色が濃厚となった時、日本は若きエリートに特別攻撃(特攻)を命じた。その殆どが10代後半から20代前半の若者だった。

 アメリカが公にするまで特攻隊の戦果はよくわからなかった。特攻隊の生き残りは白い眼で見られ、死んだ人々は「犬死に」と嘲笑された。そして戦後の復興に着手したのは、戦争の責任を取ることなく生き永らえた連中だった。「最もよき人々は帰ってこなかった」(『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』V・E・フランクル)。

 航空特攻の死者数は3948人。海中特攻は546人で海上特攻は1344人である(Wikipedia)。約6000人の隊員が花と散ったことで日本本土は守られたのである。特別攻撃がなければ日本の領土は米ソで分割して、戦後ドイツのように東西に分断されたことだろう。

新編 知覧特別攻撃隊

新編 知覧特別攻撃隊

  • 作者:高岡修
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