斧節

混ぜるな危険

「物語」は作者不詳だ

・『物語の哲学野家啓一
・『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫

 ・「物語」は作者不詳だ

・『プルーストとイカ 読書は脳をどのように変えるのか?』メアリアン・ウルフ
・『アメリカン・ブッダ柴田勝家

 では、その「物語」はどこから来るのか。近代の小説が「著者」という起源によって創出されるのに対し、「物語」は作者不詳だ。その起源は定かではない。物語はつねに、かつて誰かから聴いた話だ。そして、その誰かは別の誰かからその物語を聴いたにちがいない。(※アントン・シャンマース著『アラベスク』で)「ぼく」が語る物語が、かつてユースフ叔父さんが「ぼくたち」に語ってくれた物語であるように、幼いユースフ叔父さんもまた、別の誰かからそれらの物語を聴いたにちがいない。物語は、時と場合に応じて変幻自在に語られる。同じ物語がいつも同じように物語られるとは限らない。「ぼく」もまた、やがてそれらの物語を「ぼく」流にアレンジしながら、誰かに語り直すだろう。語られる物語のなかに、その物語を聴き、語り継いできた複数の語り手、複数の声が存在し、一つの物語には無数の物語が存在するのだ。


【『アラブ、祈りとしての文学』岡真理(みすず書房、2008年/新装版、2015年)】

 神話や民話はこのように語り継がれた。初めて本書を読んだ時、仏教変遷の理由が見えたような気がした。近代以前のメディア(媒体)は手書きの文字である。紙が流通するようになるのもそれ相応の時間を必要としたに違いない。そうするとあらゆる宗教の伝承は記憶と語りが中心となる。

 時折、龍樹や空海のような宗教的天才が登場して教義の上書き、あるいは書き換えが行われる。はたまた教義の一部が強調され、修行法が刷新されてゆくうちに世俗化の波を避けられなくなる。

 キリスト教は「救いの宗教」で仏教は「悟りの宗教」と対比される。ところが悟りが困難になると仏教もまた「救いの宗教」に変貌した。

 学問が体系化されるまでは壮大な伝言ゲームが繰り広げられていたと考えてよい。初期の言い間違いが後々とんでもない物語に変容するのが伝言ゲームの罠である。

 マントラ真言)とは、まだ論理的思考に慣れていない人類のために教義をエッセンス化したものなのだろう。

 ハミングが健康を促進するというアメリカの研究がある。鼻腔のNO濃度が15倍も上昇するというのだ。NO(一酸化窒素)は血管拡張物質だ。ハミングは英語表記だと「Hummm」。日本語だと「うん」「ふむ」に近い。これを長く伸ばすとマントラっぽくなる。インドだと「Aum/Om」(オーム)、日本語だと「阿吽」(あうん)。有無(うむ)の音も近い。あるいは南無(サンスクリット語のナマステ由来)。声帯の震えが鼻で増幅され、体全体に振動が伝わる。不思議な一致である。