斧節

混ぜるな危険

マントラ禅における目覚め

 今日の坐禅瞑想は、私に南無妙法蓮華経の題目を唱えさせた。夏の昼下がりで、開け放った窓から、沖縄の乾いた風が流れ込んできた。
 私は余念なく坐禅の姿勢で題目を唱えることに専心した。題目は私の全身心の中核から自ずから流れ出るようかのように繰り返され、南無妙法蓮華経のヴァイブレーションは、私の意識をグングンと計り知れぬ力で深めていくのを感じた。
 急に日常的現実感は、どこか遠くへ消え去り、異様な霧のような光の中にいるかのような限りない広がりがすべてを包んだ。私の題目を唱える音声は、その霊的霧の限りない広がり一面に響き渡っていた。
 私の題目は、ひたすらに続く。
 ふと気がつくと、私という存在が位置していると思われる斜め右前に、何かがいるという感じを強くもった。その何かは急速に明確なビジョンとなって感じられてきた。そして、そのビジョンは固定されて、或る友人の姿となった。それは、半年位前に、沖縄の竹富島の真夜中の便所で首を吊って自殺した友人であった。彼は不治の病――遅効性筋ジストロフィーに患(かか)っていたのだが、その短い寿命を全うすることなく、自ら死を選んだのだった。(中略)
 私はその友人の人間の果てにある孤独感を理解した。私は彼とともに首を吊って、真夜中の便所の中で死んだ。
 南無妙法蓮華経の声が静かにあらゆるものを包んでいた。死ぬことのない私、肉体でない私、南無妙法蓮華経そのものが、時を忘れて南無妙法蓮華経を唱え続けている。そこには、南無妙法蓮華経の一念のみが響き渡っていた。あらゆる生命の苦悩と死が南無妙法蓮華経の中を流れ来たり、流れ去っている。あらゆる苦悩と死が仮象として現われ、そして消えた。
 不可思議な光がすべてに満ち渡っている。(後略)

 出典については後日紹介する。

 自殺した友人が目の前に現われ、「一緒に死んでくれ」と懇願する。著者は祈りながら、「君と一緒に首を吊ろう」と応じる。

 友人の姿が消え、光に包まれる中で、「一切の苦悩と死は存在しない」ことを覚知する。元々坐禅で悟りを開いていた人物である。マントラ口唱を通して、長年にわたって引っかかってきた疑問が解(ほど)けたのだろう。

 問わずして答えは手に入らない。問い続ければ必ず答えは見つかる。

 人間関係の中で浮かび上がってくるのは「己(おのれ)の姿」である。自分を取り巻く世界の具体像には自分の心がそのまま反映している。

 尚、カトリックにおいて自殺は禁じられているが、仏教上は悪とはされていない。


【追記 4月22日】紹介したテキストはダンテス・ダイジ著『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』(森北出版/1986年)より。ただし、「南無阿弥陀仏を南無妙法蓮華経に」、「念仏を題目に」変えた。創価学会員が読みやすくなることを意図したためだ。尚、本書については苫米地英人〈とまべち・ひでと〉が「オウム真理教の教義のタネ本」と証言している。ダンテス・ダイジは絶食しながら瞑想に耽(ふけ)りながら息絶えた。享年37歳(Wikipedia)。三昧境(サマディ)であったのだろう。