斧節

混ぜるな危険

偶像崇拝の禁止

 ・法華宗の一大牙城だった京都
 ・偶像崇拝の禁止

 本書で取り上げたユダヤ教イスラム教、キリスト教、仏教には、それぞれ違った教義があるが、根本は同じようなものなのである。
 4つの宗教の共通項の最たるものは、
「お互いに助け合うこと」
偶像崇拝の禁止」
 である。この共通項は各宗教の根本思想でもある。(中略)
 キリスト教でも発祥からしばらくはキリストの像を作(ママ)ったり拝んだりすることはなかった。また仏教も現在では「仏像を拝むこと」が重要な宗教儀式となっているが、発祥から長い間、「仏像」をつくることはなかったのだ。どちらも途中から、偶像崇拝の禁を破って像をつくり拝むようになったのだ。
 またイスラム教では、今でも開祖であるマホメットの像や、ほかの人の像をつくることは禁止されている。
 なぜ「偶像崇拝の禁止」がされていたかというと、単に像をつくったり拝むことを禁止したのではなく、「誰かを神格化して拝むことをするな」ということである。
 カルト教団などは、神格化された教祖を崇拝することで成り立っているものがほとんどである。統一教会なども、まさにそれだといえる。だから現代のカルト教団のほとんどは、キリスト教イスラム教、仏教、ユダヤ教などの本旨とは真逆のところにあるのだ。
 誰かを神格化し「偶像崇拝」するようになると、すべてをそれに依存し自分で考えるのをやめてしまう。それは、その人自身にとっても、社会にとっても非常に危険な状態となる。(中略)
 誰かを神格化し崇拝をするようになると、「自分の崇拝する人の言うことがすべて」となり、それは「自分の意志がなくなる」ことにつながる。
 そして「神格化した人」以外の考えは一切認めないようになる。
 虫も殺せないような人が「偶像崇拝」してしまうと、平気で大勢の人を虐殺したり、弱いものから略奪したりするようになる。
 統一教会の問題などもせんじ詰めれば、この「偶像崇拝」につながると思われる。


【『宗教とお金の世界史』大村大次郎〈おおむら・おおじろう〉(ビジネス社、2023年)】

 グルへの依存が道を誤らせる。インドの覚者の多くがグルの必要性を説いているが、それは「道標(みちしるべ)として使う」意味であって、言わば水先案内人に過ぎない。

 目的地に辿り着けば地図は不要だ。それを説いたのが「筏(いかだ)の譬え」である。彼(か)の岸に渡れば、筏を担いで歩くことは迷妄となってしまう。

 グルで思い出したのだが、Tレックスの「メタル・グルー」も直訳すれば「メタル教祖様」である。

 おお、懐かしい(笑)。

 神格化は卑下とセットになっている。「蒼蠅(そうよう)驥尾(きび)に附して」という発想だ。自我を軽んじる方向に進めば上手くゆくのだが、「奴婢(ぬび)と為(な)つて持者に奉(つか)え」たところで悟りは開けない。

 エドワード・L・デシとリチャード・フラストが明らかにした自己決定理論(1999年)では、「外的報酬が内発的なモチベーションを低下させる」との卓見を示し、一世を風靡(ふうび)していた行動主義心理学に亀裂を入れた。アメとムチでは長距離を走ることができないのだ。

 私は中学生の時、野球部に入ったのだが打撃を買われて2年生でレギュラー入りした。野球の名門校だったので成績を維持するのが大変だった。雨が降ろうと風が吹こうと素振りを欠かしたことはない。それでも打てなくなったことがあった。闇雲に行っていた素振りをインコース高め・低め、真ん中、アウトコース高め・低めと5種類に分けて20回ずつバットを振るように工夫をしてスランプを脱出した。3年生で4番打者となり、札幌で優勝を果たした。このように自己決定感があると悪い結果が出ても前向きに捉えることが可能なのだ。自己決定感を欠くと結果に一喜一憂し、やがては無気力になる。

「やらされている」のは奴隷根性だ。死ぬまで流されているような人生しか歩めない。自分で決めれば、心地よい責任感が芽生える。

 日蓮の文字マンダラが偶像かどうかは微妙な問題だ。自分を映す鏡として用いれば免(まぬか)れるが、そうでなければ単なる偶像になってしまうだろう。