・『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光
・『重耳』宮城谷昌光
・『介子推』宮城谷昌光
・『晏子』宮城谷昌光
・兵の心を掌握する
・『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
・『孟嘗君』宮城谷昌光
・『楽毅』宮城谷昌光
・『奇貨居くべし』宮城谷昌光
・『香乱記』宮城谷昌光
用兵に過度に関心をもつと、実際の戦いで、みずからつくりあげた観念に縛られて自在をうしなう。将というもののありかたは、まず軍を統制し、兵の心を掌握することにあって、いかに戦うかは、そのつぎにくることである。将の良否は、器量にあり、それなくして才能を云々(うんぬん)するのは空論である。用兵は、才能に属する。いわば応変の才である。それは一種の感覚であり、理念として固定されるものではないがゆえに、宮中にあって座して発想されるものではない。戦陣における草のそよぎ、鳥の啼(な)き声などに、特別な意味をみつけるには、戦争体験の裏づけが必要であり、しかもその体験から解放された感覚を立たせなければならない。二度と同じ戦場はないという事実を認識すべきである。
ちなみに用兵を最優先にする者は、戦場に妄想と幻想をもちこむ危険があり、もっとも愚かしい戦術とは、敵を生きた人とはみずに、木や土でつくった人形のようにみなすことである。敵も勝とうとして必死になっていることを忘れることである。
――武将にとって、すべての思考は戦場にある。
それを子国は嫡子に教えたい。それさえ教えれば、ほかに教えることはないともいえる。が、今回も、子産を自宅に残して征(ゆ)かなければならない。これは親として子に、
――攻めることを教えるまえに、守ることばかりを教えている。
ということになり、子国の気性にそぐわないが、いたしかたない。
政治といっても軍事と経済に尽きる。子産は春秋時代の人物である。軍事と無縁な政治家は存在しない。
才人は才に溺れることが多い。そして戦争は囲碁や将棋の類いとは異なる。いかに優れた戦略を立て、戦術を練ったとしても、それを実行するのは人なのだ。その不確実性を見据えた上で強靭な意志を発揮できるのが名将であろう。
人から人へと伝わる知識や情報が文化や伝統の本質であるとすれば、戦後にGHQが行った公職追放は歴史を十分に断絶するものであった。しかも用意周到なことに7000冊以上の書籍を焚書(ふんしょ)扱いとした(『GHQ焚書図書開封1 米占領軍に消された戦前の日本』西尾幹二)。文化人や知識人は一斉に社会主義になびいた。
たった一度の戦争に敗れただけでこの体たらくである。民族性は無色透明化され、それが今日まで尚も続いている。負けるということは亡国を意味する。
英雄の登場を待つのであれば、国民の憤懣や鬱積を極限まで高める必要がある。自力で憲法改正すらできない国なのだから、中国共産党に攻撃してもらうのが一番手っ取り早いだろう。あるいは令和の五・一五事件や二・二六事件が起こるかもしれない。