斧節

混ぜるな危険

マスコミの言動には責任がない

・『半沢直樹1 オレたちバブル入行組池井戸潤
『隠蔽捜査』今野敏

 ・マスコミの言動には責任がない

・『疑心 隠蔽捜査3今野敏
・『初陣 隠蔽捜査3.5今野敏
・『転迷 隠蔽捜査4今野敏
・『宰領 隠蔽捜査5今野敏
・『自覚 隠蔽捜査5.5今野敏
・『去就 隠蔽捜査6今野敏
・『棲月 隠蔽捜査7今野敏
・『空席 隠蔽捜査シリーズ/Kindle版今野敏
・『清明 隠蔽捜査8今野敏
・『選択 隠蔽捜査外伝/Kindle版今野敏
・『探花 隠蔽捜査9今野敏
・『審議官 隠蔽捜査9.5今野敏

 竜崎は、警察庁時代にはマスコミ対策も担当していた。だから、彼らがどういう連中かよく知っている。結論から言えば、彼らは、ペンを手にした戦士などではない。商業主義に首までどっぷり浸かっている。
 新聞社もテレビも上に行けば行くほど、他社を抜くことだけを考えている。つまり新聞を売るためであり、視聴率を稼ぐためだ。
 言論の自由など彼らにとってはお題目に過ぎない。要するに抜いた抜かれたを他社と競っているに過ぎない。それは生き馬の目を抜く世界だと、本人たちは言っているが、何のことはない。彼らは楽しんでいるだけではないかと、竜崎はいつも思っていた。


【『果断 隠蔽捜査2』今野敏〈こんの・びん〉(新潮社、2007年新潮文庫、2010年)以下同】

自分が追求されると逃げ回り、説明を拒む新聞記者」の続きを。商業新聞は利益追求を目的としており、広告収入が約50%を占める。その意味からいえば聖教新聞も商業新聞である。本来であれば教団の機関紙に広告など必要ないはずだ。

 また責任のなすりあいが始まる。世間というのは、誰かを生け贄にしなければ気が済まない。それを扇動するのはマスコミだ。
 新聞各社は、鬼の首を取ったように警察の不手際を書き立てるだろう。警察はマスコミの恰好の餌食なのだ。
 捜査や取り締まりはきれい事では済まない。違法すれすれの捜査をしなければならないこともあれば、警察官同士、見て見ぬふりをすることもある。
 ぎりぎろのところで仕事をしているからだ。そして、警察はマスコミとの接点が多いのでボロが出やすい。
 それを書き立てることが、権力に対抗することだと勘違いしているのだ。本来ならば、政治家や政府をチェックすべきなのだが、政治部の記者などは、いかに与党の議員や閣僚と親しく口をきけるということに腐心している。政局を書くことが仕事であり、つまりは政治の楽屋話ばかり探しているのだ。
 本当の権力には媚びへつらい、地道に働く公務員のあら探しをやる。それが今の新聞だ。竜崎は、警察庁では長官官房の総務課長だった。マスコミ対策も仕事の一つだった。新聞などマスメディアの記者たちの付き合いも多かったので、それを痛感していた。

「地道に働く石丸市長のあら探しをやる。それが今の中国新聞だ」と置き換えることが可能だ。胡子洋〈えびす・ひろし〉の無礼で思い上がった態度はとても社会で通用するものではない。それを中国新聞本社が「問題ない」と市長に答えているのだから開いた口が塞がらない。中国新聞社としては、「一介の市長如きが」という思いがあるのだろう。

警察庁で、マスコミ対策をした経験から言えば、マスコミの顔色をうかがうことはない。彼らの言動には責任がない。一方、俺たちは日々責任を負って仕事をしているんだ」

 新聞社はでかでかとデマを報じた後で、小さな囲み記事の訂正文を出すだけで済む。無論、読者も気にしていない。そこに問題があるのだ。

 石丸市長と胡子記者のやり取りを動画で視聴した安芸高田市民も多いことだろう。それでも中国新聞を購読し続け、反市長派の清志会議員を漫然と支持するのだろう。ど田舎の旧態は依然として変わることなく、若きリーダーの改革は頓挫し、過疎化で荒廃する市へと転落してゆくのだろう。

 かつて戦争を煽ったのも新聞だった。国民の多くが戦争を望んだ。軍部は戦争を避けたかった。それを民意が押しのけた。敗戦後、新聞は何の責任も取らなかった。