斧節

混ぜるな危険

あらゆる祈りは嘆願である

・『ローリング・サンダー メディスン・パワーの探究』ダグ・ボイド
・『人類の知的遺産 53 ラーマクリシュナ奈良康明
・『あるヨギの自叙伝パラマハンサ・ヨガナンダ

 ・あらゆる祈りは嘆願である

 あらゆる祈りは嘆願であり、明晰さと解放されたハートが存在する時にはどのような欲求も存在しない。困難に陥ったときには直観的にその困難や苦痛を回避したり、ある利益を得ようとしてある種の嘆願が口まで昇ってくる。ある土俗の神か心中の神が満足な答えを与えてくれるだろうという希望があり、時折り偶然や事件の不思議な符合によって、祈り手に答えが与えられる時がある。かくして神は答えを与え、信念は正当化される。人間の作り出した神々、絶対神たちは慰みや避難所を与え、貴賤を問わぬすべての要求に答えを与える。そのような神々があらゆる教会、寺院、モスクに溢れている。土俗の神々はさらにいっそう強力でより直接的である。あらゆる国々に彼らはいる。しかしあらゆる形態の祈りや嘆願にもかかわらず、人間は苦しみ続けている。激しい理解の嵐によってのみ悲哀は終熄する。しかし祈りや嘆願はより容易で、世間の慣習に適ったものであり、それほど厳しいものでもない。そして悲しみは頭脳と体を疲弊させ、鈍感で無感覚で疲れ果てたものにする。


【『クリシュナムルティの神秘体験』J・クリシュナムルティおおえまさのり監訳、中田周作〈なかた・しゅうさく〉訳(めるくまーる、1985年)】

 ここに挙げた書籍は5年前に私が「悟り四部作」と名づけたものである。文字通り難信難解の世界が描かれている。いきなり読むと腰を抜かす可能性が大きいので初心者は自己啓発からアプローチするのが正しい。

 上記書籍は悟りの古典ともいうべき位置づけだが、いかにも宗教色が濃い。それを呪術性と言い換えてもいいだろう。あまりにも不思議なことが書かれており、人知や科学を軽々と超えている。

 今の私が考える「悟り四部作」は次のようになる。

・『あなたという習慣を断つ 脳科学が教える新しい自分になる方法』ジョー・ディスペンザ
『ザ・メンタルモデル 痛みの分離から統合へ向かう人の進化のテクノロジー』由佐美加子、天外伺朗
・『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
・『クリシュナムルティの神秘体験』J・クリシュナムルティ

 いずれにしても本書だけは外せない。空前絶後の一書である。

 ある家から飼っていた馬が逃げた。村人は口惜(くや)しがったが、老人は「これが福を呼ぶかもしれない」と動じることがなかった。数ヶ月後、逃げた馬が立派な馬を数頭率いて老人のもとに帰ってきた。村人は祝福し、やんややんやの喝采を挙げた。老人は「これが災いを招くかもしれない」と呟いた。ある日のこと、老人の息子が落馬して足を骨折した。村人は見舞いにきて怪我を悲しんだ。老人は「ひょっとすると、これはいいことかもしれない」と動揺することがなかった。やがて戦争が始まったが、老人の息子は骨折していたため兵役に取られることがなかった。老人は塞翁(さいおう)と呼ばれた。

 ご存じの人も多いと思うが「人間万事塞翁が馬」(『准南子』)の由来である。「人間」は「じんかん」とも読み「世間」の意である。吉凶(幸不幸)の変化を知ることの難しさを教えている。史記には「禍福は糾(あざな)える縄の如し」とある。

 創価学会の論法でゆけば、馬が逃げたら罰、戻ってきたら功徳、骨折は罰、兵役免除は功徳といったところだろう。おわかりだろうか? 完全に村人目線であることに(笑)。

 学ぶべきは塞翁の冷静な姿勢であろう。彼に嘆願はなかった。現実を否定して何かを欲求することもなかった。ただ眼前の事実をありのままに受け入れた。不幸な人は不要なまでに不運を恨み、「どうして私が?」との疑問に苛まれ、悪い出来事から心を離すことができない。だから、この人の場合は別の馬も逃げ出し、更には馬小屋が焼けるような事態を招くのだ。不幸な人は不幸の虜(とりこ)になっているのである。

 嘆願とは、欲望が満たされない状態の現在進行形である。屁理屈野郎は「誓願の祈り」などと言い出すことだろう。私が一言で破折しておく。菩薩の誓願は自我を払拭できていないため実はアルハット(阿羅漢)以下なのだ。もともと悟りを意味した縁覚(えんがく)の上に菩薩・仏界を立てたのは屋上屋を架すような真似で後期仏教(大乗)の浅ましさを示すものだ。