斧節

混ぜるな危険

善無畏三蔵抄

 ・善無畏三蔵抄

「言葉と、生きていく」聖教新聞

 仮令(たとい)強言なれども人をたすくれば実語軟語なるべし、設ひ軟語なれども人を損ずるは妄語強言なり、当世学匠等の法門は軟語実語と人人は思食したれども皆強言妄語なり、仏の本意たる法華経に背く故なるべし、日蓮が念仏申す者は無間地獄に堕つべし禅宗真言宗も又謬(あやまり)の宗なりなんど申し候は強言とは思食すとも実語軟語なるべし(890頁)

「大慢のものは敵に随う」でも紹介した御聖訓。対告衆(たいごうしゅ)は義浄房と浄顕房の二人。大聖人が出家された時の兄弟子であり、立教開宗後は直ちに大聖人門下となっている。山中講一郎氏の『日蓮伝再考(一) 伝説の長夜を照らす』(平安出版、2004年)によれば、「真蹟はないが文体が確実で古来、偽書説はない」とのこと。

 昨日付(2006年5月5日付)の紙上座談会に、「気違いじみた」、「気違い坊主」という言葉が掲載された。ワープロソフトでも漢字変換できない文字を目にした瞬間、私はこの御文を思った。しかも用意周到なことに、男子部幹部の発言に盛り込んであった。随分と威勢はいいが、「軟語」になってやしないか? 心の病に苦しむ人々を傷つけてはいないか? 聖教を愛読する多くの学会員をウンザリさせてないか?

 私は幹部だから今までは少なからず、“聖教の側”に立って擁護し、支持し、フォローしてきたつもりだ。家庭訪問した際にも、「何か疑問な点はありませんか? 紙上座談会のことでも何でも構いませんよ」と声を掛けてきた。また、何人もの先輩幹部に質問もしてきた。その結果、中堅幹部を含む大半の学会員が紙上座談会を読んでない事実が判明した。また、「新聞啓蒙した友人から苦情があると、全く反論できない」という見逃せない意見もあった。先輩幹部は皆一様に、「わからない」と答えた。「本部の呼吸なんだろうとは思うが、わからない……」と口ごもった。

 会員からの意見に対して、聖教新聞社側の反論としては以下のものがある。

谷川●ところで、この座談会や寸鉄などについて「言葉遣いが強すぎるのではないか」「犬畜生とか、表現が差別的ではないのか」と心配する声が、たまにあるな。


原田●最近は、みんなよく分かってきて、ずいぶん少なくなってきたが(笑い)。


秋谷●だいたい「差別」と言うなら、あの信徒差別の日顕宗だ(爆笑)。


青木●その通りだ。文句があるなら、まず日顕宗に言ってもらいたい(大笑い)。そもそも、日蓮大聖人の御書は全編、これ「正義の怒り」だ。「悪への破折」じゃないか。それはそれは厳しい言葉で仏敵を呵責されている。


谷川●たとえば、このように仰せだ。
「蚊(か)蚋(あぶ)蝦蟆(がま)の法師なり」
「蝙蝠鳥(へんぷくちょう)のごとし鳥にもあらず・ねずみにもあらず」
「梟鳥禽(きょうちょうきん)・破鏡獣(はけいじゅう)のごとし」
「牛羊よりも劣り蝙蝠鳥にも異ならず」等々。


弓谷●「当世牛馬の如くなる智者どもが日蓮が法門を仮染(かりそめ)にも毀(そし)るは糞犬が師子王をほへ癡猿(こざる)が帝釈を笑ふに似たり」等とも仰せだ。


聖教新聞 2005-07-08付】

「蚊(か)蚋(あぶ)蝦蟆(がま)の法師なり」(1162頁)

 これは「頼基陳状」で、「もしも、四条金吾が良観房のことをこのように言ったとしても」という仮定の話。

「蝙蝠鳥(へんぷくちょう)のごとし鳥にもあらず・ねずみにもあらず」(310頁)

「報恩抄」で、日本天台宗の第3祖である慈覚大師が、真言の悪法を取り入れたことを、「蝙蝠鳥=こうもり」のようだとされている部分。

「梟鳥禽(きょうちょうきん)・破鏡獣(はけいじゅう)のごとし」

 前の御文に続いている箇所。数多くの御文があるように見せかけるために、わざと分けて掲載したのだろう(笑)。

「糞犬」

 意図的にルビを振ってない。これは「やせいぬ」と読む。「くそいぬ」と読ませようという魂胆。そのくせ「ししおう」にはルビを振ってるんだから(笑)。

 こうしたことからも、紙上座談会が学会における政治的プロパガンダであることは容易に理解できよう。しかも、大聖人の御書はその殆どが私信であることを忘れてはなるまい。この記事から、相当規模の苦情があることがわかるし、短絡的な決めつけからは、“首脳の焦り”まで伝わってくる。

 まだまだ、書きたいことは山ほどある。しかし、学会員に不信を与える結果になることを私は恐れる。一番の問題は、聖教新聞社に人物がいないことに尽きる。きっと、上から下まで官僚と化しているのだろう。官僚は保身に走る。保身に走った途端、民衆の心が見えなくなる。そして、官僚は誰も責任を取らない。その結果、組織という機構の中で、師弟を分断する作用として働くのだ。

 多くの学会員が、聖教新聞の「2ちゃんねる化」を憂慮している。

2006-05-06