斧節

混ぜるな危険

日本共産党の浸透工作

 左翼と学生運動に国民が愛想を尽かしたのは「あさま山荘事件」(1972年/昭和47年)と思われる。私も微(かす)かにテレビ放映を覚えている。よど号ハイジャック事件(1970年)~あさま山荘事件三菱重工爆破事件(1974年)で、ホップ・ステップ・ジャンプを成し遂げた感がある。三島事件(1970年)に触発されたことも見逃せない。主義主張は異なるが三島由紀夫に対して敗北感を抱いた左翼は少なくなかった。

 安保闘争が国民の支持を失うタイミングで日本共産党の浸透工作が本格化した。もちろん創価学会にも大量の共産党員が入ってきたことだろう。創価学会は間口が広いから入りやすい。

創価学会側から松本清張に働きかけたのは1974年(昭和49年)である」(創共協定は「共産党を10年間黙らせる協定」)。タイミングもどんぴしゃりだ。

 1990年(平成2年)の阿部vs.池田紛争まで20年ほどを要している。この間に副会長クラスまで上り詰めた共産党員がいても不思議ではないだろう。なぜかといえば、その後日蓮正宗に対して創価学会が浸透工作を行っているためだ。創価学会出身の多くの僧侶が日蓮正宗にとどまり、あらゆる情報を創価学会本部に提供していた。

 当時の教宣部長は語った。「宗門に関して良質な情報を持ってくるのは学会出身の坊さんと銀座のホステスだ」と。

 同じ穴の狢(むじな)と言ってよかろう。創価学会は謀略の上に宗教をまとっているのだ。

 日本共産党は、革命に至る過程を情勢によって「革命的情勢の時期」と「革命を準備する時期」という二つの時期に分け、それぞれの時期において、採用すべき戦術、方針を明確に区別しました。そして、現状を「革命を準備する時期」ととらえ、革命の条件づくりのため、長期展望に立って党勢拡大を始めとする各分野での影響力の増大や国会、地方議会での勢力の拡大を図るという戦術を採りました。その後、党勢は拡大し、昭和50年代には、党員40万人、機関紙300万部を超える勢力を擁するに至りました。


暴力革命の方針を堅持する日本共産党(警察庁)