斧節

混ぜるな危険

「文は人なり」という嘘

三木清

 ・「文は人なり」という嘘

・『日本文学全集59 今東光・今日出海

 断念することをほんとに知っている者のみがほんとに希望することができる。何物も断念することを欲しない者は真の希望を持つこともできぬ。


【『人生論ノート』三木清〈みき・きよし〉(創元社、1941年新潮文庫、1954年)】

 かつて読書の人材グループを結成したことがあった。割当人数や役職は問わず希望者だけを募った。私が過ごしたのは東京の下町ということもあり本を読む者は少なかった。っていうか、本屋自体がないのよ。当時はまだ景気がよかったので書籍代はそれほど経済的負担にはならなかった。通勤コースの途中にある書店で毎月20冊前後をまとめて買っていたのだが、善意で1割引にしてくれたのも懐かしい思い出である。違法ではあるが。

 通常の人材グループだと選び抜かれた者が集うが、希望者なので毛色の変わったメンバーが集まって面白かった。私は講義をすることよりも問うことを自らに課した。結論めいたものを説くよりも、読書を考えるきっかけにして欲しかったからだ。

 私にとって読書は人と会うことと同義である。知識もさることながら、人に触れる楽しみこそ読書の醍醐味であろう。

 本書は箴言集(しんげんしゅう)である。読みやすさを考慮して人材グループは『人生論ノート』から始めた――と記憶しているのだが定かではない。『心に太陽を持て』(山本有三)だったかもしれない。

 今読んでも、ひらりひらりと軽やかに舞う思考と、引き締まった文体に魅了される。

 私は創価学会を断念した(スラップ訴訟に手を染めた創価学会)。それ以前にルワンダ大虐殺を断念した。悲惨な歴史の原因をいくら追求したところで、ジェノサイドの結果が変わることはないことに気づいたからだ。

「断念することをほんとに知っている者のみがほんとに希望することができる」――三木はそれをシベリア抑留の現場でも言えただろうか? なんとなく左翼の美しい戯言(たわごと)に思える。「呪いをこめて見ることを望むという」(『楽毅宮城谷昌光)のであれば、あらゆる希望は欲望にすぎない。

 私の恩人の子息が著作の中で『人生論ノート』に紙幅を割いている(『エッセイ はぐれ雲 俺の人生こんなもの 365日一日一文』)。本書に魅了された人々は多い。

 しかし、である。「文は人なり」という言葉は嘘である。三木清は評判の悪い人物であった。つまり、「文は嘘をつける」のだ。もっと言おう。言葉には、言葉にした途端何かを見えなくする性質があるのだ。それゆえブッダ孔子は書物を残さなかったのだろう。イエスも同様なんだが、彼の場合実在が確かではない(『イエス・キリストは実在したのか?』レザー・アスラン)。