斧節

混ぜるな危険

私が最も尊敬する人物

・『アラブ、祈りとしての文学』岡真理
『望郷と海』石原吉郎

 ・私が最も尊敬する人物

・『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界立花隆
・『香月泰男のおもちゃ箱香月泰男谷川俊太郎
・『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』ヴィクトール・E・フランクル:霜山徳爾訳
・『それでも人生にイエスと言う』V・E・フランクル
・『アウシュヴィッツは終わらない これが人間かプリーモ・レーヴィ
・『休戦プリーモ・レーヴィ
・『溺れるものと救われるものプリーモ・レーヴィ
・『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル

 入ソ直後の混乱と、受刑直後のバム地帯でのもっとも困難な状況という、ほぼ2回の淘汰の時期を経て、まがりなりにも生きのびた私たちは、年齢と性格によって多少の差はあれ、人間としては完全に「均らされた」状態にあった。私たちはほとんどおなじようなかたちで周囲に反応し、ほとんど同じ発想で行動した。私たちの言動は、シニカルで粗暴な点でおそろしく似かよっていたが、それは徹底した人間不信のなかへとじこめられて来た当然の結果であり、ながいあいだ自己の内部へ抑圧して来た強制労働への憎悪がかろうじて芽を吹き出して行く過程でもあった。おなじような条件で淘汰を切りぬけてきた私たちは、ある時期には肉体的な条件さえもが、おどろくほど似かよっていたといえる。私たちが単独な存在として自我を取りもどし、あらためて周囲の人間を見なおすためには、なおながい忍耐の期間が必要だったのである。
 このような環境のなかで、鹿野武一〈かの・ぶいち〉だけは、その受けとめかたにおいても、行動においても、他の受刑者とははっきりちがっていた。抑留のすべての期間を通じ、すさまじい平均化の過程のなかで、最初からまったく孤絶したかたちで発想し、行動して来た彼は、他の日本人にとって、しばしば理解しがたい、異様な存在であったにちがいない。
 しかし、のちになって思いおこしてみると、こうした彼の姿勢はなにもそのとき始まったことでなく、初めて東京の兵舎で顔をあわせたときから、帰国直後の彼の死に到るまで、つねに一貫していたと私は考える。彼の姿勢を一言でいえば、明確なペシミストであったということである。(ペシミストの勇気について:「思想の科学」1970年4月))


【『石原吉郎詩文集』石原吉郎〈いしはら・よしろう〉(講談社文芸文庫、2005年)】

 Bloggerから物言いがついた。ま、予想はしていたのだが。トランプ vs. バイデンの大統領選挙を通して、ビッグテックのポリコレ基準が厳格化した。最も自由であるはずのインターネットの世界に検閲の風が吹き荒れた。You Tubeでは左翼からの組織的な抗議活動によって保守系ユーチューバーの動画が次々と削除された。彼らは「小さなスターリン」だ。

創価学会のデタラメな歴史認識

 歴史的な事実を書いても差別と見なされてしまうのである。ポリティカル・コレクトネスは白人による人種差別を覆い隠すために編み出された概念であるとの指摘がある(『人種戦争 レイス・ウォー 太平洋戦争もう一つの真実』ジェラルド・ホーン)。

 少しばかり思案してBloggerから去ることに決めた。書評ブログでは以前から何度かケチをつけられていた。該当ページは広告が剥がされる。それだけではなかった。検索ランクがどんどん低くなっていたのだ。長らく気づかず、のんびりと構えてしまった。ゆくゆくはGoogleとおさらばしたいと以前から思っていた。その第一歩だ。

 パソコンで読んでる人はフォントが小さくなったかもしれない。フォントサイズの変更はCtrl+「+」でOK。「+」は何度押してもいいぞ。

 私の読書量は年間500冊で、読了本は150~200冊程度である。特に本を読む時間をとっているわけではない。喫煙時とトイレが中心である。仕事や外出の際は必ず数冊の本を持ってゆく。寝る前にも少しだけ読む。読書のコツは数十冊を同時並行で読むことだ。私の場合、多い時は50冊以上の本を読んでいる。「こんがらがってきませんか?」とよく尋ねられるが、曜日別で放映されるドラマの内容を混同する人はあるまい。それと一緒である。

 ブログの基本的なスタンスとしては「二十歳の私」に向けて書こうと思う。人材育成といえば聞こえはいいが、積極的な干渉は相手をコントロールすることと変わりがない。誰かの手を引っ張る時、相手の意思は完全に無視される。かつての私はこうした力技が得意であった(笑)。「ぶん殴ってでも成長させてやる」ぐらいの勢いだった。そうではなく、ちょっとしたヒントやきっかけを示せばいい。自分で気づかないと、いつまで経っても教えて君で終わってしまう。

 三木清が書いた「何物も断念することを欲しない者は」の一言に欺瞞を感じる。文章としても合点がゆかない。“「均(な)らされた」状態”を経験したとは思えない。

 鹿野武一〈かの・ぶいち〉は世を厭(いと)い、そして嘲笑したのだ。しかも彼は行動をもってそれを示した。吠え立てる犬によって羊の群が同じ方向へ進む中で、鹿野武一は事もなげに反対方向を目指した。彼はシベリアから帰還してから1年後に急死した。まだ37歳という若さであった。享年(きょうねん)が古谷さんと一緒である。