・ジェノサイドには「ひとりひとりの死」がない
・『石原吉郎詩文集』石原吉郎
・・『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』多田茂治
ジェノサイド(大量殺戮)という言葉は、私にはついに理解できない言葉である。ただ、この言葉のおそろしさだけは実感できる。ジェノサイドのおそろしさは、一時に大量の人間が殺戮されることにあるのではない。そのなかに、【ひとりひとりの死】がないということが、私にはおそろしいのだ。人間が被害において自立できず、ただ集団であるにすぎないときは、その死においても自立することなく集団のままであるだろう。死においてただ数であるとき、それは絶望そのものである。人は死において、ひとりひとりその名を呼ばれなければならないものなのだ。
【『望郷と海』石原吉郎〈いしはら・よしろう〉:岡真理解説(筑摩書房、1972年/ちくま学芸文庫、1997年/みすず書房、2012年)】
戦争が終わった後、シベリアに抑留された日本人は約60万人で、そのうち6万人が死亡した。飢えと寒さに苛(さいな)まれながらの奴隷労働。しかも隊列から少しはみ出た者は面白半分で射殺された。それはドイツとは異なる種類のジェノサイドに他ならなかった。
このテキストに先立つアドルフ・アイヒマンの言葉は間違っている。正確には「一人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない」と言ったとされる(※石原は「百万人の死は悲劇だが 百万人の死は統計だ」と記している。戦後の混乱によるものか、単なる誤訳か判然とせず)。
死は悼(いた)まれなければならないのだ。人々から惜しまれ、別れを告げられることが必要なのだ。文明の証が葬送品から始まったとすれば、死者を悼む行為こそが文明に課せられる。先日、こんなツイートを見かけた。
最近知ったのですが「動物の数え方は死んだ後に何が残るかで決まる」って話がすごい。牛豚は「一頭」、鳥は「一羽」、魚は「一尾」つまり食べられない部位、残る部位で呼ぶらしい。そして人間は死んでから「名前」が残るから「一名」なんだって。これみんな知ってた?目から鱗だったのでシェアします😌
— マノマノ🌾 (@manomano_farm) April 18, 2022
それゆえ人はその名を墓石に記して残すのだろう。確認されない死は生の意味を失わせる。
ルワンダでは中国製の鉈(なた)で草をなぎ倒すようにツチ族が斬殺された。そして中国ではウイグル人の大量虐殺が堂々と行われている。この期に及んでも親中派は中国共産党の手をしっかり握ったまま放そうともしない。
アイヒマン裁判を傍聴したハンナ・アーレントはアイヒマンを「凡庸な悪」と形容した。数百万人に及ぶユダヤ人を強制収容所へ輸送する指揮を執った彼は「ただ、命令に従っただけ」だったのだ。