・日蓮遺文の偽書を巡る議論
・本覚論の正当性
・本覚思想とは時間論
・本覚思想とは時間的有限性の打破
・如来蔵思想の覚え書き
日本では如来蔵思想が「本覚思想」として仏教の本質をあらわすものと誤解されてきた。それはつい最近までにも色濃くあり、いまだにそのことに固執する教団や僧侶が少なくない。
教義と記憶は似ている。教義は教団を生み、記憶は自我を形成する。
如来蔵思想の欺瞞は「蔵」の字にある。「蔵(かく)れる」の義が大乗的粉飾を放っている。物語としては巧みだが。
如来像にせよ、仏性にせよ、人格神的な臭みを払拭できていない。仏と聞けば、ブッダや日蓮を想起する人が多いのではあるまいか。もちろん私もそうだ。
こうした思い込みや錯覚を支えているのは「私」という自我である。「私」というフィルターを通して、ブッダや日蓮という他我を眺めているわけだ。
つまり、諸法無我を悟る人々が少なくなったところに、如来蔵思想という物語が生まれる動因があったのだろう。
うろ覚えなのだが、十界もインドでは八界であったはずだ。そもそも阿羅漢果を超える悟りはない。つまり縁覚=仏界であるし、菩薩は誓いを立てるがゆえに自我から離れていないのである。