斧節

混ぜるな危険

創価学会が起こした言論出版妨害事件

 ・創価学会が起こした言論出版妨害事件
 ・言論出版妨害事件を起こした創価学会・公明党は「民主主義の敵である」「自由な言論の敵である」

『池田大作先生への手紙 私の自己批判をこめて』原島嵩 1980年
『創価学会・公明党 スキャンダル・ウォッチング これでもあなたは信じますか』内藤国夫 1989年
『池田大作 幻想の野望 小説『人間革命』批判』七里和乗 1994年
『落ちた庶民の神 池田大作ドキュメント』溝口敦 1995年
・『池田大作先生への手紙 私の自己批判をこめて原島嵩 1980年
『蘇生への選択 敬愛した師をなぜ偽物と破折するのか』福島源次郎 1990年
『誰も書かなかった池田大作 創価学会の真実』原島嵩 2002年
『徴税権力 国税庁の研究』落合博実 2006年
『絶望の淵より甦る 創価学会を脱会した歴史の生き証人 体験を通して真の信仰へ』原島嵩 2007年
『黒い手帖 創価学会「日本占領計画」の全記録』矢野絢也 2009年
・『「黒い手帖」裁判全記録矢野絢也 2009年
・『乱脈経理 創価学会VS.国税庁の暗闘ドキュメント矢野絢也 2011年
・『池田大作と原島家 池田大作を会長にした原島宏治とその家族原島昭 2014年

 10月始(ママ)めのある朝早く、まだベッドにいた私は突然の電話に起こされた。
 電話口にでてみると、政府与党の最要職にある有名な政治家からの電話であった。これまで私は、マスコミでは何度も会って話していたが、その政治家と電話でヂカに話したことは一度もなかった。なぜ、そんな電話をかけてきたのか、といってきいてみると、私がここに出版しようとする「『この日本をどうする』第2巻・“創価学会を斬る”という本を出さないようにしてくれ、という公明党竹入委員長からの強い要請・依頼をうけての早朝電話である」ということであった。要するにその趣旨は、「ひとつなんとか執筆を思いとどまってもらえないものであろうか」ということである。
 もうすでに、それまで、公明党都議会議員やまた多くの創価学会会員は、予告広告したにすぎない『創価学会を斬る』というこの第2巻を出させまいとする圧力を、さまざまな形で私や出版社にかけてきた。「題名をかえろ」とか、「出版時期が総選挙の前なのでまずいからこれをずらせ」とか、また「出版に要する経費は当方で負担する」とか、さらには「みせかけだけの出版をして、残りは当方が全部買いとるから書店に並べないようにしてほしい」とか、実にさまざまな勧誘や圧力がかかってきていたのである。
 この本は、そういう苦難の中から生まれてきたものである。まさに「難産の子」であるといわなければならない。私が、敢えて“創価学会を斬る”というテーマのもとに、創価学会公明党をできるだけ国民大衆の皆さんにわかり易く批判し、その問題点をえがくにいたったのは、創価学会公明党がカンぐるように、特定政治勢力に頼まれたり、反創価学会とでもいえるような宗教勢力の依頼によって、ペンをふるったわけでは毛頭ない。
 私が一個の言論人として、また政治評論家として、政治学者として、日本の政党政治、民主政治の前途を考えた場合、なんらかの意味においてこの創価学会公明党という存在に対する対決を回避しては、日本の議会政治、民主政治はとうてい健全に育たないという強い確信をもったからにほかならない。(まえがき)


【『創価学会を斬る この日本をどうする2』藤原弘達〈ふじわら・ひろたつ〉(日新報道、1969年)】

「政治家」とは自民党幹事長の要職にあった田中角栄である。「第2巻」というのは副題のことで、同年に『日本教育改造案 この日本をどうする 1』が刊行され、翌年には『体験的マスコミ批判 この日本をどうする3』が出ており、シリーズ3部作となっている。

「私は、日本の国主であり、大統領であり、精神界の王者であり、思想文化一切の指導者・最高権力者である」(『人間革命をめざす池田大作 その思想と生き方』高瀬広居)と豪語した池田が田中に泣きついた恰好だ。後の話であるが「月刊ペン裁判」の際には笹川良一に仲裁を頼み込んでいる。どうやら内弁慶のようだ。

 私は主要な創価学会批判本は粗方(あらかた)読んでいるが、一番つまらなかったのが本書である。「なぜ、この程度の批判に大騒ぎしたのか?」という疑問が拭えなかった。たぶん、藤原の影響力を恐れたのであろう。

 言論出版妨害事件についてはWikipediaを読めば詳細が判る。著者はもとより、出版社・書店にまで脅迫が寄せられた。この時、多数の投書を行ったのが「言論部」であった。つまり上からの支持があれば犯罪的行為に手を染めるのが創価学会員なのだ。ただし、これを行った人物を私は一人も知らない。きっと反省すらしていないことだろう。更に創価学会員の作家・ジャーナリストで同事件を批判した人物も見たことがない。

 教団が数百人あるいは数千人の信者を使って一冊の本の出版を妨害したのだ。手口が完全に左翼や社会運動標榜ゴロと同じである。

 当時、池田は事あるごとに「私を守れ!」と喚(わめ)いた。社会的な批判に晒(さら)され、恐怖のどん底にあった。記者会見をせざるを得なくなり、政教分離を宣言した。これによって池田が総理大臣になる道は閉ざされる。二十年後に「王仏冥合は失敗した」と心情を吐露する。