斧節

混ぜるな危険

組織や宗教が自由を阻む

 ・組織や宗教が自由を阻む

クリシュナムルティ

 自由を達成するためには、どんな組織にも、どんな宗教にも加入する必要はない。なぜならそれらは人を縛り、限定づけ、あなたに崇拝や信条の特定の型を押しつけるからだ。もしもあなたが自由に憧れるなら、私がそうしたように、どんな種類の権威に対してもあなたは戦うだろう。というのも、権威は霊性の反対物だからである。仮に私が今日自分を権威として用い、あなたがそれを受け入れるとすれば、それはあなたを自由には導かず、たんに他人の自由に従っているだけになるだろう。他者の自由に従って、あなたは自分をさらに強く限定の輪に縛りつけることになる。あなたの精神、あなたの心が、何か、または誰かに縛られることを許すな。もしあなたがそうするなら、あなたはもう一つの宗教、もう一つの寺院を建てるだけになる。一方で一つの信仰体系を破壊しながら、他方で別の信仰体系を作り上げることになるのだ。私は人を縛るあらゆる伝統、精神を狭めるあらゆる崇拝、心を腐敗させるあらゆるものに対して戦っている。もしあなたが、私がその道を指し示した自由を見出すつもりなら、私がそうしたように、あなたの周りのすべてに不満で、反逆と、内なる不同意の状態にあることから始めなければならない。あなたはよく次のような言い回しを使う。「私たちはリーダーに従うつもりだ」誰があなたのリーダーなのか? 私は一度もリーダーになどなりたいと思ったことはない。私は一度も権威をもちたいと思ったことはない。私はあなたに、あなた自身のリーダーになってもらいたいのである。(キャンプファイヤートーク、1928年)


【『自由と反逆 クリシュナムルティトーク集』J・クリシュナムルティ:大野龍一〈おおの・りゅういち〉訳(コスモス・ライブラリー、2004年)】

 星の教団を解散する前年の講話である。クリシュナムルティは33歳の青年であった。昭和3年でこれほどの見識を示した事実に驚きを禁じ得ない。池田大作が生まれた年でもある。世界は第一次大戦(1914-1918年)から第二次大戦(1939-1945年)へと向かっていた。

 私はかつて、創価学会を去って日蓮正宗へ行った人々に対して「信心の強さ」を感じた。教団への帰属意識よりも日蓮や御本尊への信を重んじた行為であると認識していた。

 その後、クリシュナムルティを読むようになってから見方が変わった。クリシュナムルティは教団から教団へと渡り歩く人のことを、「古い監獄から新しい監獄へ引っ越しただけ」と断じた。

 我々が望む自由は、「心地よい監獄」である場合が多い。恵まれた職場、恵まれた家族、恵まれた経済力が実は監獄として作用する。そこから離れる自由がなくなってしまうが故に。君が望む幸福とは、金持ちの家の飼い犬みたいな環境を意味していないか?

 若い頃から「極限状況における人間の振る舞い」に興味があった私は、ナチスに迫害された人々の手記や、山岳もの、終末期医療、事件・事故、虐殺の歴史などを読んできた。多分、幼い頃に竜の口の法難を知った影響が色濃くあったのだろう。そうした過程で信仰の目的は「幸福よりも自由を目指すべきではないのか?」と思うようになった。

 創価学会の活動報告や信仰体験で「自由になることができました」という内容は一度も聞いたことがない。幸福一辺倒だ。そして幸福を望むのは不幸な人である。とすると創価学会は不幸な人の集まりということになる。

 ルワンダ大虐殺を知った途端、幸福も自由も吹き飛んでしまった。そんな概念や理窟は大虐殺の事実の前では何の役にも立たなかった。そこから私の志向は自由から悟りへと向かった。

 師弟については既に書いてきた。

創価学会の師弟論 その一
師弟相対はバラモン教への回帰

 悟りと自由はもちろん異なる概念ではあるが、わかりやすく言えば「過去からの自由」「思考からの自由」「自我からの自由」となる。