斧節

混ぜるな危険

心養生

『お江戸でござる』杉浦日向子
『すらすら読める 養生訓』立川昭二

 ・江戸という社会は老いに価値をおいた社会であった
 ・心養生

・『養生訓貝原益軒松田道雄
・『養生訓・和俗童子訓貝原益軒:石川謙校訂

「心養生」とは、「常に怒と慾とを堪ゑ、心に恥しと思ふことを為(なさ)ざる事」である。心はかたちのないものだから、食で養うことはできない。義こそ心の食であり、義は宜(ぎ)であって、時の宜(よろ)しきを得て心に恥じないことである。この「心養生」こそ、益軒も重視していたメンタルヘルスのことである。


【『養生訓に学ぶ』立川昭二〈たつかわ・しょうじ〉(PHP新書、2001年)】

 文章中で引用されているのは伊予出身の医家・水野沢斎〈たくさい〉著『養生辯』(ようじょうべん/天保12、1841年)から。「常に怒と慾とを堪ゑ(こらえ)」に目を奪われた。怒は地獄の因、慾は餓鬼の因である。生理・摂理の共通性から普遍が生まれるのだろう。

『養生訓』は名文である。思わず声を出して読みたくなる。江戸中期に差し掛かった頃のベストセラーゆえ、人々はまだ黙読できなかったことだろう。著述も楽譜のように音を意識して行われたに違いない。

「正」が個人的な正しさであるのに対して、「義」は公的(社会的)な正しさを表す。

 折角なんで『養生訓』の冒頭の一文を紹介しよう。

 人の身は父母(ふぼ)を本(もと)とし、天地を初(はじめ)とす。天地父母のめぐみをうけて生れ、又養はれたるわが身なれば、わが私(わたくし)の物にあらず、天地のみたまもの、父母の残せる身なれば、つゝしんでよく養ひて、そこなひやぶらず、天年を長くたもつべし。

 高度経済成長の頃まではまだ「わが私(わたくし)の物にあらず」という感覚が残っていたように思う。男性は刺青(いれずみ)を躊躇し、女性は耳に穴を開けることが少なかった。それがどうだ。昨今は狂ったLGBT旋風が吹き荒れ、欧米では10代前半の少女が「男性という性自認に基づいて」乳房を切除しているのだ。縫合された傷痕の画像を見て痛ましくなった。20代になって子を生みたくなったらどうするのか? その時、胸の大きな傷痕よりももっと大きな傷をこうむるに違いない。