斧節

混ぜるな危険

財施よりも法施が重い

 師は問われた――「スプーティよ、どう思うか。ガンジス大河の砂の数だけガンジス河があるとしよう。それらの河にある砂は多いであろうか。」
 スプーティは答えた――「師よ、それだけのガンジス河でさえも、おびただしい数にのぼりましょう。まして、それらのガンジス河にある砂の数にいたってはなおさらのことです。」
 師は言われた――「わたしはあなたに告げよう。スプーティよ、あなたによく理解させよう。それらのガンジス河にある砂の数だけの世界を、ある女なり、あるいは男なりが、七つの宝で満たして、如来・尊敬すべき人・正しく目ざめた人々に施したとしよう。スプーティよ、どう思うか。その女なり、あるいは男なりは、そのことによって、多くの功徳を積んだことになるであろうか。」
 スプーティは答えた――「師よ、幸ある人よ、その女なりあるいは男なりは、そのことによって、多くの、多くの、計り知れず、数えきれない功徳を積んだことになるのです。」
 師は言われた――「実に、また、スプーティよ、ある女なり、あるいは男なりがそれだけの世界を七つの宝で満たして、如来・尊敬すべき人・正しく目ざめた人々に施すとしても、もしも立派な若者や、あるいは立派な娘が、この法門から四行詩ひとつでもとり出して、他の人々のために示し、説いて聞かせるとすれば、こちらの方が、このことのために、いっそう多くの、計り知れず、数えきれない功徳を積むことになるのだ。」


【『般若心経・金剛般若経中村元〈なかむら・はじめ〉、紀野一義〈きの・かずよし〉訳註(岩波文庫、1960年/ワイド版岩波文庫、2001年)】

 般若(パーリ語でパンニャー)とは智慧のことである。鬼女の面を般若と呼ぶのは、作者の名前「般若坊」が由来のようだ(コトバンク)。金剛般若経は大乗経典の中でも初期につくられた。龍樹の中観(ちゅうがん)思想に彩られている。

 ブッダと対話しているスプーティ(須菩提〈しゅぼだい〉)は十大弟子の一人で「解空(げくう)第一」と言われた。ブッダ祇園精舎を寄進した須達多(すだった)長者は伯父に当たる。やり取りからすると、スプーティは既に悟りを開いている。

 まだ読み終えていないのだが、上記テキストの内容が何度も繰り返される。財施よりも法施が重い。それでも財施に励む人がいるとすれば、ブッダに違背するものと考えてよかろう。

 創価学会における財務は犠牲と自己満足を競い合う雰囲気があり、黙って行われることがない。唱題同様、数が多ければ多いほどよいという資本主義に毒された価値観が横行している。一歩譲って、行躰即信心であったとしても、行躰即悟りではない。

「功徳を積む」との言葉遣いに違和感を覚えた。いくら功徳を積んでも悟ることはできないからだ。きっと、功徳を積もうとする大衆の動きがあったのだろう。法施といったところで他人の言葉の受け売りだ。そんな行為で功徳が積めるという考えが浅ましい。

 それでも尚、般若心経・金剛般若経は悟りの輝きを放っている。空観(くうがん)・無自性は諸法無我に則(のっと)っている。