斧節

混ぜるな危険

日蓮教学は仏教たり得るのか?

 私は創価学会の出版物は粗方(あらかた)読んできたのだが、一般書レベルでいえば仏教書よりもキリスト教関連の方が読書量は多い。もともとキリスト教に興味があったわけではないが、何となく世界基準の思考を知りたいと考えてきた。

 そもそも明治期の翻訳語の背景を知らないと、流行(はや)りのカタカナ英語だらけの意味不明な文言と似た状況となる。その意味から申せば福澤諭吉西周〈にし・あまね〉は知の巨人といってよい(柳父章〈やなぶ・あきら〉著『翻訳語成立事情』を参照せよ)。

 仏教に関して蒙(もう)を啓(ひら)かれたのはティク・ナット・ハンアルボムッレ・スマナサーラの登場が大きい。ま、日本の仏教界にとっては黒船同然だったことだろう。突如として息を吹き込まれた初期仏教が今までとは全く異なる輝きを見せ始めたのだ。

 私には予予(かねがね)「日蓮教学は仏教たり得るのか?」という疑問があった。私は創価学会版の御書全集を二度読んでいるが、日蓮の遺文では三法印を理解することができない。三相や苦、空、無常、無我についても同様である。

 で、疑問の最たるものは「悟り」について何も説かれてない事実である。日蓮自身が「悟った」とすら書いていない。もしも虚空蔵菩薩から智慧の珠を授かったのであれば、我々も虚空蔵菩薩を拝むべきではないのか?

 大体、大乗仏教を名乗りながら空や縁起を知らない、あるいは重視しないのはどうしたことか。

 私は既に仏教徒の自覚すら喪失しているため、特段反省しているわけではないが『仏教の思想』(全12冊)を読み始めた。初版が1968年と相当古い。タイトルからも明らかなように左翼全盛の時代であるため、意図的に思想的なアプローチを試みている。今、3巻に至ったのだが、増谷文雄〈ますたに・ふみお〉や梶山雄一〈かじやま・ゆういち〉はやはり凄い。

 個人的には悟りのヒントを探しているだけなので、仏教を利用しているとの誹(そし)りは甘んじて受けよう。

 修行における世界的な潮流は瞑想、ヨーガ、禅の三つである。そんな事実すら誰一人真剣に考えていないところに日蓮系教団の危うさがある。マントラは傍流だ。