斧節

混ぜるな危険

いい質問

 ・いい質問

身体転移錯覚

「人生で一番大切なことは何だと思う?」と様々な人に質問してきた。皆、色々なことっていうか、勝手なことを言う(笑)。「学ぶこと」と答えた人が多かったような気がする。一応どんな答えに対しても「フム、なるほど……(沈黙)」と応じる。

 私は「問うこと」だと思っている。これは幼少期に形成された性格に由来したものだ。7~8歳の頃だったと記憶するが、食卓を囲みながら、「何で?」(どうして、なぜの意)を連発したところ、父親から怒鳴りつけられたことをよく覚えている。

 もっと幼い頃(たぶん3~4歳)だが、両親が本を読む姿が不思議でならなかった。幼心には「何をしているのだろう? あの紙の中には何があるのだろう?」という程度の疑問であった。世界は不思議に満ちていた。

 3歳の時、伯母に連れられて買い物に行った際、私が大声を上げて騒いだことがあったという。見知らぬ婦人に向かって、「オバサンは、僕の頭に(買い物)カゴをぶつけたのにどうして謝らないの?」と癇癪(かんしゃく)を起こしたらしい。無論まったく憶えていない。

 そんな性格もあって若い頃から、「何か質問は?」「疑問はある?」と言うのが口癖になっていた。もちろん、組織の内にあっても外にあってもだ。

 問い方に人柄や生き方が如実に表れる。特に回りくどい言い方をする者に対しては厳しい姿勢で臨んだ。後になって戸田城聖のレコード全集のCDを入手したのだが、登山会の質問会で、「何が訊(き)きたいんだ? 歴史を語るな!」と叱責する声を聞いて、ストンと腑に落ちた憶えがある。

「いい質問だ」と私が褒めるのは、「答えにくい質問」である。つまり、答える私が試されるのだ。問われた私が逆に問い返す恰好(かっこう)になるところにコミュケーションの醍醐味のようなものを感じた。発起衆(ほっきしゅ)とはそういう存在を指す言葉であろう。

 ネット上は教えて君の愚問で溢(あふ)れているが、稀にキラリと光る質問が寄せられる。問いは苦悩の度合いに応じて深さを増してゆくものだ。

 例えば私は幼い頃から、幽霊の存在よりも、幽霊が「見える」ことの方がはるかに不思議だった。六十になった今も、視覚・錯覚・妄想などの本を読み漁っている。疑問はいまだ解決していない。