斧節

混ぜるな危険

日蓮の再誕

【青山しげはる】ぼくらの国会【百田尚樹】
【青山しげはる】AAA 青にゃんの総て【ぼくらの国会】
『人間革命をめざす池田大作 その思想と生き方』高瀬広居

 ・日蓮の再誕

 昭和52年に起きた有名な話だが、池田大作が千葉の清澄寺(大聖人が幼少の頃に修学された寺)を訪れた際、そこに生える千年杉に向かい、木肌を撫(な)でながら、「久しぶりだね。700年ぶりだねぇ」と呟(つぶや)いてみせた件(※実は、この千年杉の樹齢はまだ約250年だった)や、あるいは、小松原法難に縁の深い華房の地へ行った際には、傷洗いの井戸を見ながら、「あの時(小松原法難の時)は、たしか14人だったかな」と発言した件など、ともかく池田が自分を日蓮大聖人の再誕に見せようとした言動は、数多く目撃されていて枚挙に暇(いとま)がない。


【『慧妙』平成13年11月1日付】

 これは痛い。普段は使わない表現だが「痛い」としか言いようがない。昭和52年は創価学会の絶頂期で、池田は供養のカネを創価学会で使おうと目論んでいた。後に創立60周年に向かう中で三桁(みけた)の喜捨が全国的に奨励されたが、供養の対象は三宝から組織へと変遷した。

 池田大作は胆力の人であると私は考えている。そしてカリスマ性と独裁には親和性がある。歴史の舞台で英雄と呼ばれた人々は強引なまでのリーダーシップを発揮した。更に専横的な振る舞いが周囲の瞳には魅力と映るのだ。カリスマ性の相乗効果といってよい。

 池田の日常を録画すれば、「青にゃん劇場」並みの動画はすぐにでも作れるような気がする。ただし、個人的にはそれを批判するつもりはない。言論の自由を逸脱しているわけではないし、いかなる発言だろうと信者には信じる自由が保障されている。ま、傍(はた)から見れば「嘘をつく自由」や「騙される自由」にしか見えないわけだが。


【木造日蓮聖人坐像(池上本門寺蔵)】