・『池田大作先生への手紙 私の自己批判をこめて』原島嵩 1980年
・『蘇生への選択 敬愛した師をなぜ偽物と破折するのか』福島源次郎 1990年
・『誰も書かなかった池田大作 創価学会の真実』原島嵩 2002年
・『徴税権力 国税庁の研究』落合博実 2006年
・原島嵩が証言する言論出版妨害事件 その一
・原島嵩が証言する言論出版妨害事件 その二
・原島嵩が証言する言論出版妨害事件 その三
・『黒い手帖 創価学会「日本占領計画」の全記録』矢野絢也 2009年
・『「黒い手帖」裁判全記録』矢野絢也 2009年
・『乱脈経理 創価学会VS.国税庁の暗闘ドキュメント』矢野絢也 2011年
・『池田大作と原島家 池田大作を会長にした原島宏治とその家族』原島昭 2014年
彼(池田)は色々と手を打ちました。創価学会と取引があった複数の銀行の頭取とも会い、自民党に国会喚問をやめさせることをお願いしました。公明党の竹入・矢野の首脳たちを呼び、内閣法制局長官にも働きかけるようにもしました。池田みずから、時の総理大臣・佐藤栄作氏にも電話で泣きつきました。これは私が池田から直接聞いたことです。民社党の塚本書記長が池田の国会喚問を要求したのに対して、同党の西村委員長に「将来、公明党も民社党に合併させる。公明党は解散させ民社党に入れる」などと、できもしない約束をし、当面の池田喚問だけは回避しようと右往左往していました。
最後は、池田自身が5月3日の総会で「お詫び発言」をして事態の収拾をはかることになり、さっそく私にその原稿の作成を命じました。私と桐村泰次氏の二人で草案をつくりました。これをタタキ台にして、池田と親しかった朝日新聞の央忠邦記者、読売新聞の浅野秀満記者等を呼んで、いろいろな相談をしました。また、学生部の法学委員会の責任者である山崎正友氏や神崎武法氏ら数人の弁護士、現職検事を呼び寄せ、私たちの作成した原稿をもとにして、意見を求めました。さらに山崎正友顧問弁護士を通じて、塚本総業の社長・塚本素山氏、その関係で橋本公旦弁護士らとも相談しました。また、京都産業大学の若泉敬教授をしばしば呼んでいました。
【『絶望の淵より甦る 創価学会を脱会した歴史の生き証人 体験を通して真の信仰へ』原島嵩〈はらしま・たかし〉(日新報道、2007年)】
Wikipediaに以下の記述がある。
1961年(昭和36年)、創価学会に顧問制度が創設され、日蓮正宗法華講連合会会長(当時、初代委員長)の平沢益吉、三菱銀行員の戸田喬久の2人と共に創価学会顧問(初代)に就任する。
埼玉県熊谷市の法潤寺の建立を発願し、1963年(昭和38年)に、法潤寺が建立された。
1969年(昭和44年)8月、藤原弘達の『創価学会を斬る』が出版されそうになると、小佐野賢治や田中角栄に、8000万円で出版を止めさせる交渉をさせた。これが世論で問題にされて以来、創価学会の活動は鈍くなった。
戸田喬久は戸田城聖の長男である。塚本素山を検索したところ興味深い記事を見つけた。
だが、塚本の名前に触れることは、従来一種のタブーとされてきた。何か不気味なカと雰囲気を彼は持っていたらしい。学会会員には多くの財界人がいる。戸田順之助・戸田建設社長、本間嘉平・大成建設会長、堀田光雄・富士急行社長、中川一郎・東洋キャリア会長その他。これらの財界人会員については、多くの学会系資料が触れている。しかし学会顧問の地位にまで就いたにもかかわらず、塚本総業社長・塚本素山については、その名前すら見あたらないのだ。
彼の略歴については前述した。しかし一復員少佐が、いかにして財界の顔役にまでのしあがれたのか、謎は多い。共産党情情報通にいわせれば、彼は“死の商人”なのだという。「彼は小佐野賢治、児玉らと並ぶ日本の黒幕の一人です。現在、赤旗に連載中の『日本の黒幕、小佐野賢治』が終ったら、次は素山がやられる番になっています」という。(中略)
まず結論を先にいおう。児玉、塚本ら日本の右翼指導者たちにとって、創価学会は日本民族の意識の、反共の砦のひとつとして位置づけられていたのである。(中略)
児玉はその日蓮宗の檀家総代であり、塚本は学会の願問だった。宗教的信条において異るこの2人は、にもかかわらず手を結んだ。宗教的次元で提携したのではなく、反共という思想的次元において提携したのである。つまり日蓮宗、日蓮正宗を含む、日本の全宗教団を動員して、反共の砦として育成することを考えたのだった。
国際勝共連合の黒幕の一人といわれた人物に、元日大会頭・古田重二良(故人)がいる。言論妨害事件のおり、古田は必死になって学会防衛にあたった。「古書を焼く」という名目のもとに、警察、消防署の許可をとり、学会批判書のすべてを集めて、日大グランドで焚書まで行なった。彼は右翼指導者として、学会をつぶしたくなかったのである。
しかしながら結果的に池田は出版妨害事件を経て左旋回するのである。作家の松本清張に接近し、創共協定(1974年)を結ぶことになる。「保守派は頼みにできない」との結論に至った可能性もある。
権力者に額(ぬか)づき、公明党まで売り物にする振る舞いが浅ましい。創価学会員の涙ぐましい支援活動を思えば、会員に対する大きな裏切りと言ってよい。