斧節

混ぜるな危険

私が創価学会を批判する理由

友岡雅弥の査問

 ・私が創価学会を批判する理由

 本来であればこのブログに綴りたいことは、宗教・仏教・悟りに関してである。歴史に学び、科学の視点に立ちながら。そのための材料はあるし、用意もできている。

 だが、友岡の査問によるPTSDと死を知って憤激の念に駆られた。私は生前の友岡と親交があったわけではない。講演を聞いたこともなかった。一度、座談会終了後に挨拶をしたことがあり、それがきっかけで後々フェイスブックの友達申請に至った。あとは、ツイッターで二度ほどやり取りしたけだけだ。ただ、私の後輩が関西で友岡の世話になっており間接的な関係はあった。

 その程度の細い関係性ではあったが、死に至る背景を知った時、「殺しに行こうかな殴り込みに行こうかな」と思うほど頭にきた。具体的な手口や段取りを数日間にわたって考え続けたほどだ。

 創価学会で査問を受けた人は決して少なくないようだ。皆、おとなしくしているのだろうか?

 一般に戦後のある時期まで、社会の中にある野生の暴力が役立っていた。必ずしも非合法組織の事ではない。村には青年団があり、上級生は生意気な下級生に鉄拳制裁を加えた。教師の体罰も有効な抑止力だった。街角で「いじめ」を見て、普通の市民が介入し、叱責した。
 いつの頃からか「刺されるから止めておこう」に変わった。教師も見て見ぬ振りで、事なかれ主義になった。その頃から「いじめ」は学校の中で密室化し、陰惨になり、何が起こっているのか見えにくくなった。
 昔は「いじめ」はいくら激しくても、それで自殺する者はいなかった。「いじめ」は子供が大人になる通過儀礼のようなものであった。そこで心が鍛えられ、友情や裏切りを知り、勇気や卑劣の区別も悟り、社会を学ぶ教育効果もあった。
 暴力を制するには暴力しかない。教師の体罰を許さないような今の学校社会が「いじめ」による自殺を増加させている。「いじめ」の密室化を防ぐには社会の中の野生の暴力をもう一度甦らせるしかなく、「生命を大切にしてみんな仲良く」といったきれいごとの教訓では、見て見ぬ振りの無責任と同じである。
 追い込まれた子供が自殺するのは復讐のためであると聞く。一度死んだら蘇生できないという意識がまだ幼くて希薄で、死ねば学校や社会が騒いでくれて仕返しができると考えての自殺行為であるという。
 であるとすれば、死んだら仕返しも何もないということを広く教育の中でまず教える事である。それから、これが何より大切だが、死ぬ覚悟があるのなら相手を倒してから死ね、と教える事である。
 仕返しや復讐の心に囚われている子供、しかも社会の中に自分を助けてくれる有効な暴力がない子供に(だから自殺に追い込まれたのだろうが)、仕返しや復讐はいけないことだという人道主義や無抵抗主義を教えるのは、事実上自殺への誘いである。
 まずは正当防衛としての闘争心を説く。学校の先生がそれを教える。いじめられっ子に闘争心が芽生えれば、もう自殺はしない。防衛は生命力の証である。


【『国家と謝罪 対日戦争の跫音が聞こえる』西尾幹二〈にしお・かんじ〉(徳間書店、2007年)】

 いじめの根本原因は拉致被害者を傍観している政府と国民の姿勢にある、というのが私の考えだ。更に歴史をさかのぼればシベリア抑留にまで行き着く。国家規模のいじめといってよい。

「死ぬ覚悟があるのなら相手を倒してから死ね」――こんな当たり前のことすら大人は教えなくなってしまったのである。国が亡ぶのは時間の問題だろう。自国の拉致被害すら真剣に思わないのだから、チベットウイグルの虐殺に関心がないのもむべなるかな。

 本当に日蓮仏法を信じて、罰を恐れる心があるならば、悪い幹部と徹底的に闘うことが正しい。

 私が創価学会を批判するのは友岡雅弥の追善のためである。特段、学会員に脱会を勧める意図はない。諸君は好き勝手にしろ。私も好き勝手にする。