斧節

混ぜるな危険

眼に見えぬ祭壇を作る

 ・眼に見えぬ祭壇を作る

『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワール
・『ニューソート その系譜と現代的意義』マーチン・A・ラーソン
・『エスリンとアメリカの覚醒』ウォルター・トルーエット・アンダーソン
・『現代社会とスピリチュアリティ 現代人の宗教意識の社会学的探究』伊藤雅之

 あるいは祭壇や儀式も、個人の精神生活にとって以前よりも重要ではなくなります。重要なのは、ひとりひとりが自分の内部に眼に見えぬ祭壇を作ることです。ひとりひとりの人間に、一切の聖霊の働きが内在化しているとすれば、自分の内部を探究していくと、自分の内部から必要な行動の指針が必ず出てくるはずです。かつての時代は、誰か偉い先生に質問して、そしてその先生の言うとおりにやればまちがいなかったわけですけれども、第三の時代になりますと、誰かそういう権威者に頼って生きようとしても、それでは生きられないような状況に直面せざるをえなくなるときがきます。


【『神秘学講義』高橋巖〈たかはし・いわお〉(増補版、角川ソフィア文庫、2023年/角川選書、1980年)】

 ヨアキム・ディ・フィオレ(12世紀末、イタリアでシトー派の修道院長)が説いた時代区分で、第一の時代「父の時代=旧約の時代」(神の権威と罰の恐怖によって人間を指導する時代)、第ニの時代「子の時代=理性が目覚めた時代」(枢軸時代から近代に至るまで)、第三の時代「聖霊の時代=霊的体験が個人の内部だけでも体験できる時代」となっている。

 ユングシュタイナー、そしてブラヴァツキー(!)を巡る精神史を神秘学という断面で切り取る。私は神智学協会エサレン協会密教と捉えている。現代の比叡山と見てよい。批判するのは簡単なのだが、欧米キリスト教世界に与えた一撃を軽々しく考えてはならないと思う。また、そこから咲いた花は次々と実を結び、クリシュナムルティニューエイジ~アドヴァイタ(不二一元/ノンデュアリティ〈非二元〉)の流れに至った。

「眼に見えぬ祭壇」とは宝塔である。ヨアキムが説いた時代区分がストンと腑に落ちる。近代化とは「一揆ができなくなった」時代を意味するものと私は考えている。前時代の米に該当するのは現代のマネーであるが、そもそも銀行に預貯金の全額はない。そして銀行は準備預金制度というシステムで信用創造を行っている。単純にいえばノーリスクで100倍のレバレッジをかけているのだ。預金準備率を1%とすると、預金者が100万円を入金する➡銀行が日銀に100万円を入金する➡銀行は9900万円の貸し出しを行うことができる。現在の法定準備率は法定準備率は0.05〜1.3%なので、もっと大金を貸し出すことが可能だ。つまり、マネーサプライとは借金の総額を表している。仮に預金が全額あったとしても、セキュリティによって大衆がそれを奪うことは不可能だろう。

 もう一つは原子爆弾である。私は原爆の誕生が一揆はおろか、民主政をも滅亡させたと考えている。一切の暴力は原爆の前で無力である。

 近代とは「標準化されたシステム」(『Dark Horse(ダークホース) 「好きなことだけで生きる人」が成功する時代』トッド・ローズ、オギ・オーガス)に大衆を取り込む時代であった。個人は組織に従わざるを得なくなった。

 そして、新型コロナ騒動である。政府が人々の移動の自由を制限し、飲食店の営業にまで口を挟むのは完全な憲法違反である。世界全体が中国共産党のような独裁を許してしまった。大手メディアは「真実を隠蔽する装置」と化した。その後、ウクライナパレスチナで戦争が始まった。アメリカのダウ平均株価が史上最高値を更新したのも当然だ。アメリカの基幹産業は軍需産業であるゆえ。

 まあそんなわけで、何をどう頑張ったところで社会がよくなることはない。本当にないんだよ。悲しいことだが。「市民の連帯」や「大衆の糾合」は過去の夢だ。

 だからこそ、「悟りの時代」が到来したと私は展望する。悟る以外の道は残されていない。