斧節

混ぜるな危険

戸田城聖の一瞥体験について

戸田城聖の悟りに関する覚え書き その一
戸田城聖の悟りに関する覚え書き その二
獄中の悟達について

 ・戸田城聖の一瞥体験について

日蓮は悟ったのか?

 創価学会では「悟達」(ごだつ)と称しているが、「一瞥(いちべつ)体験」が正しい表現である。初代会長の牧口常三郎が真理を否定したことと、創価学会で悟りを開いた人がほぼいないことが相俟(ま)って、「完璧な悟り」に至ったと誤解している人々が多い。

 ネット上で妙悟空(※戸田のペンネーム)著『人間革命』の抜粋があったので参照した。

PDF:戸田先生の獄中の悟達と発迹顕本・資料編

 一度読んでいるが殆ど記憶がない。私にしては珍しく抜き書きすらしていない。尚、池田名義で刊行されている『人間革命』の記述は、翻案小説ともいうべき代物で検討する価値はない。

・虚空会(こくうえ)で日蓮が釈迦から相承を受けた場面に立ち会った。
法華経がすらすら読めるようになった。

 至福体験の中であったのはこの2点である。

 前にも書いたが私の父が似たような経験をしている。その後兄弟にも確認したが特段変化は見られなかったという。ただ、私に対して「題目はゆっくり唱えよ」と語った。それだけだ。意味すら言わなかった。父は毎日数時間の唱題を行い、膝を壊したほどだった。

 一瞥体験をしている人は少なからず存在する。現在、多数の著作が刊行されている。西洋占星術では「魚座から水瓶座の時代に変わる」(21世紀から40世紀まで)と言われていて、これがニューエイジの語源となっている。詳しいことはよく知らないのだが、たぶん悟りを開く人が増え始める。

 悟り本を数十冊読んできて少し見えてきたことがある。

・一瞥体験で終わる人。
・一瞥体験後、うつ状態になる人。
・時を経て二度目の体験をする人。
・至福状態がしばらく続く人。
・まったくの別人になってしまう人。

 などに分かれる。至福体験がない人もいるようだ。一瞥体験は悟りの入り口ではあるが悟りそのものではない。

 そして覚者の言葉は皆、完全に一致している。昨今の流行は非二元(ノンデュアリティ、アドヴァイタ)だが、これはヒンドゥー教の不二一元論に由来している。ところが悟りは教義を軽々と超越する。悟りは悟りであって、教義などという小さな容れ物に収まる代物ではないのだ。

 戸田の一瞥体験については意外なほど簡単に判断できる。

「おお! おれは地涌の菩薩ぞ! 日蓮大聖人が口決相承を受けられた場所に、光栄にも立ち会ったのだぞ!」――これが致命的だ。諸法無我に至ってないことが明らかだ。この「おれ」を真我と呼ぶことも難しいだろう。

 一瞥体験によって悟るのは「我(が)の崩壊」である。しかしながら一発で我が崩壊しきるわけではない。何度も何度も我は立ち上がり、波のように寄せては返し、かえって至福体験を強く望むことで再び人を支配するのだ。

 戸田はその後、悟りを促す内容の話は全くしていない。ただ、教勢拡大に努めただけだ。それ自体が強い自我の裏返しといえよう。また、4億2000万円もの遺産をのこした事実は、まだまだ貧しかった創価学会員から搾取(さくしゅ)したようにしか見えない。