・『池田大作先生への手紙 私の自己批判をこめて』原島嵩 1980年
・『誰も書かなかった池田大作・創価学会の真実』原島嵩 2002年
・原島嵩が証言する言論出版妨害事件 その一
・原島嵩が証言する言論出版妨害事件 その二
・原島嵩が証言する言論出版妨害事件 その三
・正本堂問題の舞台裏
・創価大学の建学の精神を考案した原島嵩
・戸田会長も認めた原島嵩の教学力
一、正本堂が御遺命の戒壇であるとは現在においては断定しない
二、御遺命の戒壇が国立であるか否かは引きつづき議論する
三、「聖教新聞」に正本堂が御遺命の戒壇の「完結」ではないとの理事長(和泉覚氏)談話を掲載する
最後の理事長談話は、私が徹夜して草稿をつくりました。その草稿は原稿用紙十数枚に書いた長いものでした。妙信講側にその草稿を見せたところ、当初は「池田会長談話にしてほしい」と強硬意見だったのですが、学会側から「それだけは勘弁してほしい」と熱願し、私たちの「池田先生をお守りしたい」との言葉の、「師」を思う気持ちの強さに「そこまでいうのなら」と理解を示し、「理事長(当時、和泉覚氏)談話」に落ち着きました。また、長い文章を短く簡潔にしてくれと依頼されましたので、そのことはこちら側で承諾しました。最後に、妙信講側からは「正本堂は御遺命の戒壇ではない」と文言を入れるように強い要望がありました。もし、その通りにすれば、たいへんな結果になると私は判断しました。つまり、これまでの学会の主張が全面的に崩れてしまいます。御供養金355億円が集まったその正本堂の意義も、完全に否定しさることになります。それでは御供養金返還運動=それが当時、民主音楽協会(民音と略称、学会の戦略拠点の一つ)の職員であった松本勝弥氏から起こされていた=を正当化させてしまう結果になります。「実質的な戒壇建立」との御供養趣意書もウソになります。それらの理由から、このことだけは断じて防がなければならないと私が判断し、「御遺命の戒壇ではない」との言葉に「御遺命の戒壇の完結ではない」と「の完結」を入れるように強い要望を出しました。激論のすえ、それは妙信講側が受け入れました。結局、日達上人の「訓諭」の線に落ち着いた結果となりました。この結果を、当然のことながら宗門にも「ご報告」申し上げました。
10月2日付け聖教新聞に、約束の「理事長談話」が掲載されました。その内容は、「いまなお広宣流布の一歩にすぎない。広宣流布はこれからである。何もかもが終わったという考えは間違いである。『正本堂は御遺命達成の完結ではない』」といった趣旨の内容でした。
ところが、10月12日、正本堂完成奉告大法要が終わって、参詣者が総本山から帰路につこうとするころ、大きな出来事が起こりました。福島源次郎副会長が、池田大作の伝言を登山客全員に伝えたのです。それは「本日、700年前の御遺命が達成しました。ありがとう」
まさしく「訓諭」にも違背し、学会が「理事長談話」として社会に公表したことにも反する、すなわち妙信講との約束も反故(ほご)にし、宗門にも討論内容をご報告申し上げたことも偽りであったことを明確に示す、池田の「伝言」だったのです。「流血の惨も辞さず」との覚悟の妙信講の池田批判、これに対して池田が「猊下に説得してもらうしかない」と判断し、日達上人が「辞世の句」まで詠まれて、それに応じられたことなどまったく無視して、池田の「正本堂が御遺命の戒壇達成」との名誉欲、執着心、日蓮正宗700年の御相伝を無視した大謗法、自己本仏化の誇示を示す「伝言」をこのまま放置しては、大変なことになります。私はすべてのいきさつを熟知していたため、池田の「伝言」を伝えた福島副会長に「責任をとれ」と強い言いました。そして、すでに登山バスが帰路へ向けて出発していましたから、北條浩副会長ら首脳と相談し、バスの到着所に担当幹部を待機させ、伝言を打ち消させました。それでも、池田の「伝言」は結果的に組織のすみずみ伝えられたことは、最近になって知りました。
この善意の私の「処置」に、池田はいたく不満をいだいたのでした。雪山坊(総本山内で、学会がもっぱら使っていた宿坊)の1階ロビーで、池田は烈火のごとく私を叱りました。「責任をとれとは何だ!」「正本堂は御遺命の戒壇ではないのか!」
私は、せめて「先生をお守りしたいばっかりで」というのが精一杯でした。すると「私なんか守らなくていい。私は牢をも辞さない男なんだ」とののしり断言しました。その罵声の激しさは、数人のまわりの側近たちさえ震え上がるほど凄まじいものでした。その時、平成18年11月9日に選出された原田稔新会長がいましたが、私に「原島さんの言っていたことは正しい」とただ一人、私に同調して語っていました。
【『絶望の淵より甦る 創価学会を脱会した歴史の生き証人 体験を通して真の信仰へ』原島嵩〈はらしま・たかし〉(日新報道、2007年)】
言論出版妨害事件(1970年前後)で「私を守れ」と喚(わめ)き散らしたことはすっかり忘れた様子が窺える。
和泉覚〈いずみ・さとる〉の理事長談話が聖教新聞に掲載されたのは昭和47年(1972年)10月2日付である。正本堂落慶の10日前のこと。
妙信講は現在の顕正会(けんしょうかい)である。正本堂の意義の変遷についてはWikipediaに詳細がある。
国立戒壇の建立は戸田城聖の遺言でもあった(創価学会内部では「遺命」と表現した)。創価学会は昭和38年(1963年)に300万世帯を達成し、快進撃の真っ只中にあった。その勢いに任せて池田は先走ってしまったのだろう。正本堂供養が行われたのは昭和40年(1965年)10月9~12日の4日間で、当初30億円集める予定だったが355億3600万4309円(海外信徒分含まず)となった。宗門が沈黙せざるを得ない金額である。
妙信講との折衝に臨んだのは北條・秋谷・森田・原島・山崎正友といった面々であった。原島と山崎は当時の汚れ仕事を全部任せられていた。
池田は舌禍(ぜっか)が絶えない人物だった。怒りに駆られた時にやくざのような凄みを発したのは、戸田の下(もと)で借金取りの仕事をしていたためだろう。
タイミングとしては、ここで原島は反旗を翻せばよかったのだ。その判断が遅れてしまったがために批判がぼやけてしまったように思える。そして原島が学会を去った後に池田の懐刀(ふところがたな)として暗躍したのが山崎正友であった。原島と山崎がもっと早く池田と袂(たもと)を分かっていれば、平成2年(1990年)の阿部vs.池田紛争はなかった可能性すらある。
結局のところ何だかんだと理窟をつけても、学会の動きはカネにまつわるものだった。要は「供養(寄付金)を宗門に渡したくない」という、ただそれだけのことだった。
あるいは北條や秋谷が会則を変更して株式会社のように民主的な定款(ていかん)にするべきだった。特に学会の資産については特定の人物が自由にできないようにしておけばよかったのだ。北條は戸田が逝去した後の池田のやり方を目撃していたはずだ。池田は戸田の私有財産まで押さえたのである。とても行き当たりばったりの発想でできることではない。