斧節

混ぜるな危険

八王子市を創価市にしようという目論見

『創価学会を斬る この日本をどうする2』藤原弘達 1969年
『池田大作先生への手紙 私の自己批判をこめて』原島嵩 1980年

 ・比木三九男
 ・八王子市を創価市にしようという目論見
 ・池田への付け届け運動を奨励した長谷川重夫
 ・上田夫妻の悩み
 ・『私の履歴書』を代作した松岡資
 ・二人の会長候補
 ・野崎兄弟

『池田大作 幻想の野望 小説『人間革命』批判』七里和乗 1994年

「多摩に菩提寺を作りますよ。日本一のお寺を作る。300年前の様式で作る。創価山立宗寺と名付け、萩をずっと植えて、月をあびながら、生きるために永遠のために懇談しましょう。設計は八矢のところでやる。石畳、燈炉等を作る」(昭和47年4月18日 第60回社長会
「大学の近くに数万坪の土地を買って数十億。牧口児童館とか……戸田記念館……世界の本部にする。公会堂、講堂。地方の人がもう何千人でも収容できる恒久的な本部、広宣流布の本山を作っておきたい。会員から応援してもらって。これでほぼ日本の機構が確立……本山は坊さん……どうしようもない。学会は別法人。見事なものを作りたい」(50年6月16日 第1回中央会議)これらの発言に端的に示されているように、池田は八王子を学会の総本山、世界の本部にするとの、八王子創価王国構想を強く抱いていた。
 大石寺のある富士宮市で、山崎正友に画策させて念願の名誉市民の称号を手に入れた直後の昭和50年、池田は山崎に対し「次は八王子でできないか。あちらに学会の本山を作って、将来、創価市としたい。今、唐沢(※照明 創価大学前理事長)や八尋(副会長・弁護士)にやらせているが、君も手が空いたら向こうに入ってくれ」と、天理教天理市のように、八王子市を創価市としたいとの胸の内を語ってもいる。


【『創価学会公明党 スキャンダル・ウォッチング これでもあなたは信じますか』内藤国夫〈ないとう・くにお〉(日新報道、1989年)】

 昭和47年(1972年)という時期に注目した。言論出版妨害事件から2年後であり、この年の10月には正本堂が落成している。池田としては反転攻勢の機会を狙っていたのだろう。創共協定松本清張に働きかけたのが1974年(昭和49年)だ。

 正本堂供養で創価学会の集金力は証明された。10日あまりで数百億円を集めることができたのだから、池田はじっとしていることができなかったに違いない。

 内藤国夫毎日新聞のスター記者(編集委員)で、朝日新聞本多勝一と並ぶ大物記者だった。1980年には池田にインタビューをしている。

 本書に関していえば、揶揄(やゆ)・中傷レベルの記述が多く、創価学会の主要幹部の実名を挙げてこき下ろしている。そして、脱会した幹部に対する評価が甘い。週刊誌レベルの記事で品性を欠いていて、新聞記者としての矜持(きょうじ)は窺えない。

 世俗の栄誉を求めるのはコンプレックスの裏返しだろう。池田は悟りを開くこともなく周囲からの称賛と評価を求め続けた。数多くの名誉学位で我が身を飾ることは、むしろ法を下げることになりはしないか?

 池田の反転攻勢は失敗する。細井vs.池田紛争によって。